『曾根崎心中』〜これは恋?愛?~ /点綴会vol.3
点と点を綴り合わせて線を描くように、一人一人の発話と全員の対話によってテーマを深める「点綴会」。今回と次回のテーマは、「恋愛」です。
「恋の、手本となりにけり」
元禄時代が初演の人形浄瑠璃の古典、『曽根崎心中』(近松門左衛門 作)の最後の一文です。よく知られたセリフですが、なかなかすごいことを言っています。
素通りできない我々は、『曾根崎心中』を改めて読み、この物語を恋とする派(恋派)、愛とする派(愛派)、それぞれの立場を表明したうえで話し合いました。
300年前のテキストから、恋と愛を再考します。
『曽根崎心中』あらすじ
商人の徳兵衛は、親方(叔父)の妻の姪との縁談を断ると、大阪追放と既に継母に渡した持参金の返済を求められた。その後、苦労して継母から持参金を取り返すが、その金を友人九平次に一時貸しにした。
その一部始終を、深く言い交わした遊女のおはつに語る。その後、九平次に金の返済を求めると、借りた覚えがないと言ううえ、証文の偽造を訴えられ、汚名を着せられる。徳兵衛は、潔白証明のための自害をほのめかし、立ち去る。
おはつが徳兵衛の悪い噂に心を痛めていると、忍び姿の徳兵衛が現れたが、九平次が来たため裲襠(うちかけ)の裾に隠して縁の下に忍ばせる。九平次は徳兵衛の悪口を言いふらすが、おはつは足を使って徳兵衛をなだめ、自害の覚悟を伝え合う。
夜更けになり店を抜け出したおはつと徳兵衛は、曽根崎天神の森へと辿り着く。二人はそれぞれ木に体を縛りつけ、徳兵衛がおはつを脇差で差し殺し、自分もおはつの剃刀で自害する。
まずは、メンバーそれぞれの意見を見てみましょう。
【恋派】島倉_恋は秩序からの逸脱
江戸時代、天下泰平とは儒教的な価値観による安定した秩序である。逆に安定していないものは秩序の外に位置づけられる。夫婦が安定した人間関係でありそれは恋ではないもの(愛?)とすれば、結婚前のお付き合いは不安定な人間関係で恋ということになる。
安定した社会のために社会から排除された恋は廓の中に押し込められた。そしておはつと徳兵衛の恋は廓の中でしか許されないものであった。この時代に彼らが添い遂げるには死を選ぶしかないのである。結果、心中という事件を起こした二人の恋はやはり秩序を乱すものであった。
【恋派】ユキノ_心中は運命を乗り越えようとする意志
私は、徳兵衛とおはつの間にあるのは「恋」であって「愛」ではないと考えている。「身も世も思うままにならない」ことを突きつけられた時にこそ、恋から愛に変わる可能性を秘めていると考える。
では、死という、最も他者から隔たれる残酷な運命の執行を共にすることで、抗いがたい隔絶を越えていくことができるのか? この問いが心中である。
しかし、「曽根崎心中」では徳兵衛にもおはつにも、「あなたに生きて欲しかった」という感情が描写されない。悲惨な運命から逃避する幻想を他者に求めるのが恋。それを乗り越えていこうとするのが愛。
【恋派】ナカノ_愛とは呼べない命の軽さ
冒頭「観音めぐり」の中で、徳兵衛とはつの関係は煙に例えられている。煙は不確かで、いつか消えてしまうものだ。この物語は、「恋の、手本となりにけり」の一節で終わるが、二人が〈恋〉をしていたとしたら、それははかなく頼りない。
煙のようにふと死んでしまった二人の間に〈愛〉があったら、と思う。
「恋愛には、もしそれが愛と呼べるものなら、前提がひとつある。すなわち、自分という存在の本質から愛し、相手の本質とかかわりあうということである」(エーリッヒ・フロム)
どうしようもない命の軽さは、〈愛〉とは程遠い。
【愛派】大木_試練にあっても揺らがない愛
「恋」はゆらゆらしたもので、「愛」は揺らぐことのないものだと思う。
大阪を追放される徳兵衛にはつが、この世で一緒にいられないのであればあの世で結ばれようと伝えたとき、2人はまだ揺れ動く恋の中にいたのかもしれない。しかし、縁の下の徳兵衛とはつが死の覚悟を確かめあうとき、2人はお互いへの揺らぐことのない気持ちが愛であることを知ったのだろう。2人が貫いた愛は絶対的なものだった。
何か困難に出会ったときに、揺れ動く気持ちが「恋」と「愛」を教えるのかもしれない。
恋派と愛派、それぞれ手のうちを見せあったところで議論が始まります。まずメンバーの中で意見が分かれたのは、「徳兵衛とおはつの死への評価」でした。
おはつは受動的? 主体的?
大木
死んだら恋が永遠になることはないと思う。 ただ、縁の下で2人が愛を確かめ合ってから死ぬまでの間、2人は愛し合っていた。時間が短かろうが長かろうが、そのことが大事なんじゃないかな。
ナカノ
結局、死を選んだのは、徳兵衛の事情におはつが巻き込まれた形じゃないですか。 おはつの主体性って、どこにあるんだろう。「徳兵衛が死ぬから、私も死ぬ」。それは愛なのか? おはつが何を求めていたのか、わかんなかった。
ユキノ
同感。「徳兵衛はともかく、なんでおはつも死ぬの? 」って思ってた。 だけど当時の遊女は、助けに来て欲しい人が永遠に迎えに来ないことが明らかなら、その人に添い遂げることで郭から抜け出すのかなと。
ナカノ
なるほど、おはつが特兵衛に身を任せることは、主体性の放棄ではなくて、 主体性の獲得だったのか。
大木
僕は逆で、おはつの方が死にたがってる印象があったな。最初に心中に触れたのはおはつの方。その後、九兵衛が来て覚悟を決める時もおはつの方からで、徳兵衛は答える形だった。
恋は揺らぎ、愛は残る
ナカノ
でも恋、このゆらゆらが、どうしてそんなに強い威力を発揮するんだろう。
大木
恋と愛は分けられないと思うんですよ。 恋と愛を分けるって、材料力学における梁の運動の近似に似ているなと思ったんです。揺れ動く恋は梁の振動を表現する弾性モード。揺らがない愛は梁そのものの運動を表現する剛性モード。 梁の運動はこれらの重ね合わせを行うことで科学的に「近似」するわけですが、近似は実際の運動を完全に表現しているわけではない。恋愛も恋と愛という要素が不可分な形で存在していて、それこそが恋愛を特別なものにしていると、僕は思いました。
ユキノ
面白いですね。外界の変数によって自分が変わるというのは、外界との関係から自分の安定を見出していくことですね。となると、最終的に2人は2人なりの安定(=死)を得るから、愛なのか? 納得させられてしまった……。
結局、本人たちの合意のもとに安定が得られれば、それでいいわけですもんね。
ゲームとしての恋愛
島倉
『曾根崎心中』の関係には、ゲーム性がありますよね。駆け引きっていうのかな。
最初に「死にたい」と思ってたおはつが徳兵衛を巻き込んで、一緒に死ねたらおはつがWinnerみたいな。そんなゲーム性を見ると、この関係はやっぱり恋だったように思う。
ユキノ
私は2人が心中を実行する前の甘美な瞬間だけが愛で、心中を実行した瞬間、全てが終わったんじゃないかと思うんですよね。
ナカノ
心中も一瞬の気の迷いとも捉えられるよね。2人は恋の揺らぎの中で死に向かっちゃったんだと思うな。
大木
両方の気持ちが愛もしくは恋だった可能性もあるけど、どっちかが愛で、どっちかが恋だった可能性もある。
徳兵衛の方が選択肢はある気がするんです。(借金を背負っても)人生やり直せるじゃないですか。でも、おはつは徳兵衛がいなくなれば、廓から連れ出してくれる人と出会うまで待つしかない。そういう意味で、気持ちが変わらないおはつには愛がある気がする。徳兵衛に関しては、気の迷いでおはつに引きずられたという側面もあるのかな。
ユキノ
徳兵衛視点で重要だと思ったのが、彼は幼少期父母のもとを離れ親方の世話になっていて、(親方に)恩返しもできず死んでいくことを悔いるという場面。徳兵衛には、自分を絶対的に受け止めてくれる寄る辺がなかった。だからこそ「あなたのためなら死んでもいい」というおはつが現れた瞬間、安心できる拠り所に見えてしまった……。
大木
人間関係の変化から「自分にはおはつしかいない」という発想になったとすれば、やっぱり徳兵衛って恋だな。
ユキノ
でも、ゆらゆらした状態から抜け出すためにやることが心中なんだったら、愛という見方もできるのかなと、(意見が)変わってきました。
ゲームを乗り越える恋愛
ここで、もう一人のメンバー、ジュンの意見も聞いてみましょう。
【?派】ジュン_毒々しい感情の渦巻き
「人を死に至らしめる愛」というのは何だろう。愛というものは、対象を愛しく思う感情なのだろうが、曾根崎心中において、徳兵衛とはつは最終的に死を選ぶ。
二人の間にあるのは身分の壁。到達する最終地点が死であるから、 作品自体は純粋な愛と捉えられるのかもしれないが、私は毒々しい感情が渦まいてると思う。徳兵衛のおはつへの感情は独占欲。そういう感情に飲まれた結果、徳兵衛とはつは死を選ぶしかなくなる。
私はもう真実の愛とはどのようなものなのかわからない。
島倉
この頃って、「個」を出してはいけない。遊女として、 町人として振る舞う。(個人として)何かを請うことは、許されていないんですよね。その中で、請うてしまったんですよね。独占欲を出してしまった。
大木
愛って排他的なものじゃない気がして。だって、愛はいろんな人や物に向けられるじゃないですか。ユキノさんが言うような「生きてほしい」みたいな(愛する)気持ちと独占欲とは、かなり違うところにあるのかなと。
ユキノ
遊女はアクセサリーとして、周りに対する示しにもなるわけだよね。
ジュン
そうです。おはつはハートで愛してたのかもしれないですけどね。
ユキノ
でも、徳兵衛は虚栄心のために足元を掬われたということだよね。
順当にいけば徳兵衛はお金が払えなくて遊女に見捨てられちゃう場面だけど、一緒に死んでくれたとなったら最高の美なんだよね。
遊郭は疑似恋愛を売ってる場所だからこそ、お金に対して得られるサービスを提供されていたということ。その中で、支払いの範疇を超えた心の繋がりの部分になってくると、(おはつは)すごく嬉しいよね。
島倉
おはつには遊女として一流の面と二流の面があると思う。男の客(徳兵衛)の恋する力を引き出したのは一流。二流な面は、徳兵衛から金を絞れるだけ絞って別ればいいのに、本当に好きになっちゃってるところ。
ユキノ
おはつに本当に好きにさせた徳兵衛も、念願かなって心中したおはつも、両方Winnerなわけですよね。
ナカノ
Winnerって言うけど、「勝つ」って何だ?
大木
おはつにとっての勝ちは郭から抜け出すこと? でも僕はおはつに打算性を感じない。
ユキノ
身請けみたいなルールをぶち壊して、ゲームを完全にリセットさせるバグみたいなものが恋か愛なんだよね。一流の遊女として引っかけた客に対して抱く感情って、恋でも愛でもない。
300年前、実際にあったエクストリームな恋愛を通して、恋と愛について考える20代の白熱っぷりを、お感じいただけたでしょうか。
テキストの中の発見が発見を呼び、様々な角度から切り込むものの、結論は出ないこのモヤモヤを、読者の皆さんと共有できれば幸いです。恋も愛も、モヤモヤするものだからこそ、昔も今も、人を惹きつけるのでしょうから。
次回はそれぞれが「恋愛」をテーマに選書します。
参考:鳥越文蔵ほか校注・訳「曽根崎心中」『近松門左衛門集〈2〉』1998年、小学館、14頁〜43頁。
中野多恵
編集長。大学院生。芸術コミュニケーション専攻。
好きな言葉:「手考足思」(河井寛次郎)
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