〈第三世代〉戦争再考計画1 / 戦争を表現する

〈第三世代〉戦争再考計画1 / 戦争を表現する

真珠湾攻撃から80年経ちました。戦争は記憶ではなく、歴史の一ページの出来事に落ち着いていくのを感じます。しかし、あの戦争が起こったのは本の中ではなく、まさに私たちが生きているこの国で起こったことでした。

実際に戦争を経験した人びとはこの世界を去っていきますが、戦争をした事実は永遠に消えません。

それでは、これから日本人として生きていく私たちは、この事実をどのように受け止めるべきなのでしょうか。


今回の企画「〈第三世代〉戦争再考計画」では、戦争について考えたい〈第三世代〉の若者が集まり、それぞれの視点から意見を出し合いました。

戦争を経験していない私たちにとって、「戦争」を知る機会の多くは「戦争を描いた作品をみる」という経験です。映画、文学、漫画、アート……戦争を表現した作品に、私たちは何を感じ取るのでしょうか。

そして、戦争を作品化することは、どのような意義、そして問題点を孕んでいるのでしょうか。

参加メンバー

(敬称略)

ナカノ:今回の企画立案者、MAJIME ZINE編集長。現在は大学で美術史を学ぶ。

島倉:東京大学文科Ⅲ類。来年から日本近現代史を専攻予定。

ナナ:ドイツのルートヴィヒ美術館で研究員として勤務。専門は現代アート。

ユキノ:大学で日本近現代文学を専攻。広島出身。原爆に関心。

角山:大学で芸術学を専攻。広島出身。

進行:モエコ

印象に残っている戦争作品

――印象に残っている戦争に関連する作品を教えてください。

ナカノ:映画「海辺の映画館」(大林宣彦監督)戦死した偉人の死に際をコラージュのように辿る作品です。

島倉:ドラえもんの「ぞうとおじさん」。戦時中、上野動物園で動物が殺されていく中で、衰弱死させようとされる象たちを、ドラえもんが救おうとタイムスリップする話。リアリティを感じさせない点や、戦争の中の「動物」をテーマにしている点で新しく、感性に訴えてくる作品だと思います。

ナナ:Rabih Mroué《Shooting Images》。大学院の勉強会へ参加したときに出会った映像作品。撃つ人と撃たれる人がいる、印象的な作品でした。

ユキノ:坂口安吾『戦争と一人の女』。戦争を刺激的な面白いものとしてとらえる視点が面白いと思います。

角山:こうの史代『この世界の片隅に』を卒業論文テーマにする予定です。作者が広島出身、広島が舞台という点で、自分との共通点を感じて手に取ったのがきっかけ。戦争を如何にポピュラーな主観で伝えるかについて考えたいです。

ヒロシマとわたし

角山歴史修正主義とサブカルチャーの関係にも興味があります。それは、自分が被曝3世であることと関わりがありますね。自分の生活やアイデンティティに深く関わることを理解したいという気持ちから、サブカル、そして歴史修正主義に目を向けています。広島の人間にとって、原爆はとても近くにあるテーマです。自分のアイデンティティーと結びつけて捉えている人が多い感じがします。

ユキノ:自分の住んでいる地域と関係があることは興味に結び付きやすいですね。私の出身小学校では、普通の社会の授業が丸々一年平和教育に充てられていました。原爆を意識させられざるを得ない環境だったと思います。

私が戦争に当事者意識を持ったきっかけには、タイムリミットが関係しています。私たちの世代って、終戦から60年くらい間が開いていますよね。戦争の当事者、最後の被爆者があと何年、その体験を生の声で語れるか。そんなタイムリミットがぎりぎりのところに来ているんです。

小学校でお話をしてくださった語り部の方たちの中には、「こうやって話せるのは君たちが最後かもしれない」と仰っていた人もいました。「当事者の自分たちが居なくなったとしても、なんとか君たちに戦争や原爆の経験を語り継いで行ってもらいたい」という被爆者の思いを子どもながらに強く受け取りました。

ナナ:2008年、東京のアーティスト集団Chim↑Pomが広島の上空に、飛行機雲で「ピカッ」と言う文字を書いて大きな議論を呼んだことがありました(「ヒロシマの空をピカッとさせる」)。スキャンダラスなパフォーマンスではありますが、彼らは戦争を軽く見ていたわけではないんです。むしろ「我々は平和ボケしているから、もう一度過去の原爆投下について考え直すきっかけにしたい」という意図があったそうです。広島出身のお二人はどう捉えましたか。

Chim↑Pom webサイトより引用。http://chimpom.jp/project/hiroshima.html

角山:Chim↑Pomのパフォーマンスを初めて知った時は、嫌悪感を覚えました。それは、私には原爆を簡単にネタにしちゃいけないという価値観が染み付いていたからだと思います。芸術や戦争を学んでいくうちに、広島の人は「被爆者しか原爆の悲惨さを語っちゃいけない」という認識が強いのではないかと感じ始めました。戦争は戦争体験の有無に関わらず色々な人が語り、表現すべきものだと思うんです。Chim↑Pomのパフォーマンスは、表現の仕方を人々に喚起した意義あるものだったと評価できるんじゃないかと、今は思います。

ユキノ:我々には戦争経験がないからこそ、原爆の問題に触れてはいけないという意識がある気がします。角山さんは、実際に戦争体験者・被曝者の方に経験を聞き出すことがためらわれるという体験があったんですか。

角山:母が被爆者の祖母に被曝のことを聞いたとき、祖母が「なんで辛いことを思い出させるのか」という雰囲気だったため、簡単に触れはいけないことだと実感したそうです。

ユキノ:Chim↑Pomの作品は、被爆者や広島にとって問題だったのは、作品がトラウマを思い出させるものだったからだと思います。被曝経験をフラッシュバックさせる表現だったからこそ、反発されたという面があると。そもそも、戦争は伝えていく必要がある経験だけど、思い出すこと自体に強い抵抗感がある場合もあるという二面性を持っていると感じました。

非当事者が表現する戦争

ーー戦争体験の有無は、戦争を表現することにどう影響していると思いますか。

島倉:日中戦争・太平洋戦争は1937年から8年間続きました。その中の「原爆投下」ってほんの一瞬のことですよね。だから当事者はその前後のつながりの中で原爆という悲劇性を語る。被爆体験を表現できる。その当事者にも何か加害者性があったかもしれない。でも当事者ではない人々が表現しようとする時、原爆投下という一瞬のインパクトに囚われて、そこだけを「戦争」だと捉えてしまい、悲劇性に傾いた表現をしてしまいがちになる。突然の原爆投下という「一瞬」は悲劇で日本は被害者である。それは確かです。しかし我々はアメリカの原爆投下の責任を問う前に真珠湾攻撃の責任を自責しなければなりません。手違いがあったとは言え日本は奇襲攻撃というルール違反をした加害者です。このように戦争の8年間に日本は誰かにとって被害者でもあり加害者でもあった。
でも日本人は、日本人の加害者性を積極的に表現しないんですよね。原爆投下は真珠湾攻撃という卑怯な奇襲への「報復」であるというロジックを認識している日本人が一体何人いるでしょうか。戦争体験があるなら、戦争協力・仲間や家族を見捨てたと言った負い目を感じる加害者としての自分も、被害者としての自分も一つの線の上で語ることができます。一方、戦争体験がない世代が戦争を表現しようとする場合、被害者性ばかりを強調したり、同情を誘うような表現をとることがあります。このように体験を踏まえないバイアスのかかった表現が歴史修正主義に加担してしまう場合もあるのかと思います。

ナカノ:愛読書・岸政彦『断片的なものの社会学』の中のエピソードを思い出しました。戦争を奇跡的に生き残った人がその体験を話す講演をするというもの。その人は色々な講演で同じ話をしていたけど、いつも決まって、仲間が死ぬシーンで涙を流す。でも、ある講演会で「あと10分です」というカンペが出された瞬間、そのおじいちゃんは、全く話せなくなってしまった。

当事者の中には色々なものが絡み合って、それがひと続きの線になっているけど、それを外部の者が阻害すると、自分の中の流れが完全に止まっちゃう。それこそ「当事者性」なんじゃないかな。これは、絶対に戦争非体験者では起こり得ない感覚だと思う。カオスみたいなものが当事者の一人一人の中にある。

そして、それを取り上げることができるのが芸術だと思います。

現代美術の可能性ーー複雑さを残したまま問いかけるーー

ナカノ:一般大衆が見る映画だと、万人が理解できるようにわかりやすく「編集」するけれど、現代アートには、複雑なものを絡まったまま出せるという可能性を感じます。現代アートを専門とされているななさんはいかがでしょうか。

ナナ:広島と長崎に原爆が落とされて、沖縄では史上最悪の地上戦があって、敗戦国になった。このストーリーがあるから、日本は被害者に「なれちゃった」んだと思います。日本人のほとんどが戦争に加担していたはずですが、敗戦国になったから被害者になったなと。

勤務しているルートヴィヒ美術館は、たくさんの退廃芸術を所蔵しています。ドイツの公立の美術館が、そういった作品をコレクションしていること、展覧会としていることに意義があると思います。加害者の側が被害者の側に寄り添う、しかもそれを公的機関がオーガナイズする。そういうのを日本はしたくないわけじゃないですか。例えば慰安婦像や、大浦信行さんの昭和天皇をモチーフにした映像作品についての問題。全体のコレクティブとして、自分たちの歴史の一部として考えることが一番の鍵だと思います。日本の美術業界は、それを問い直しながら戦争という大きなテーマに立ち向かい切れていない。それをバックアップできる専門家の力が必要なのかなと思いました。

ナカノ:表現したい人が表現するだけじゃなくて、その表現をちゃんと受容できる人も必要だし、その芸術をバックアップする人も必要だということですね。その観点、私には抜けていました。

ナナ:美術とは、過激で、攻撃的なものです。単に癒しを与える綺麗なものではありません。しかし、多くの人は美術に癒しを求めていて、美術が攻撃的な表現をすると、拒絶反応を起こします。美術側は、そこまで想定して現代美術のあり方を考えないといけないと思います。

戦争を表現する意義ーー私たちは戦争作品をどう受け止めるかーー

ーーここまでで話してきた「戦争作品」の性格は、大きく二つに分類できます。

①戦争をフェアに描こうと努める現代美術などの表現

②悲劇性を強調したり、同情を誘ったり、大衆に受け入れやすくしたりしたエンタメ的な作品(映画など)

ここからは、戦争を表現する上での問題や、作品化の意義の有無、表現を受け取る私たちが、どんな風に作品と向き合ったらいいかをこれから考えていきたいです。

ユキノ原爆を描いた作品の意義について。日本が原爆にフォーカスし過ぎていることで、被害者意識に認識が偏っているというお話が島倉さんからありました。武器として核が登場して、世界が終わるレベルの戦争が可能になってしまった。それを抑止しなきゃいけない。この認識は、世界共通のものです。そのために、核の脅威を一人一人に刷り込ませていく必要がある。その手段として一番有効なのが、「作品化すること」だったんじゃないでしょうか。

角山さんが戦争を描いたこうの史代さんの漫画『この世界の片隅で』を研究したいとおっしゃっていましたよね。戦争漫画の2大有名作品の一つは、「はだしのゲン」。これは被爆者の方が描かれた作品ですけど、一方のこうのさんは、当事者ではないですよね。当事者が描くものと、当事者ではない人が描くものにはどんな違いがあるのかを聞いてみたいです。

角山:こうの史代は被爆しておらず、当事者ではありません。

非当事者のこうのが目指したのは、文献を元に物語を作るということです。語り部の話ではなく、文章化されて残っている史料や記録をベースに一人の主人公のフィクションを作り出しています。こうのの作品は、戦争と自分の距離がすごく近いわけではなくても、「戦争」を自分の一部として表出させることができることの証明になっていると思います。

島倉:「文献を使った芸術」という指摘には、正直びっくりしました。「文献だけでは語りえないところを芸術や文学といった感性の分野でやってくださいね、理性の部分は学問でやりますから」という明確な線引きが存在すると思っていました。文献はアカデミズムのものだと勝手に認識していたので。

こうの作品には、理性と感性、どっちもあるんですね。学問にもすごく近いのに、感情を盛り込んだフィクション。だから芸術もリアリティを持てるんですね。

角山:人々にむごたらしさを喚起しようと思ったら、フィクション作品は「いかに悲劇を悲惨に描くか」という点にフォーカスし過ぎてしまって、誇張に走りやすいという問題があります。そうすると、視点の均衡が取れなくなったり、事実との乖離が生じてしまったりする。

戦争のリアルがわからないからこそ、実在する文献にあたって、足りないところは想像力で補って作り出せるものがあるんじゃないかな。

ナカノ:今回、表現することをテーマにしましたが、これは表現者だけの問題ではないということを強く感じました。表現する側が、戦争をどう切り取るかだけが問題で、受容者の理解に委ねられているという構造は、絶対に違うと思う。受容する私たち側も、戦争に対する知識を持って、批判的に見る目や、作品を評価する視点を獲得する必要があるのかな。

歴史を表現するということには、大きな責任が伴うということ。

表現者/受容者の立場の違いに関わらず、その責任は、全ての人が有しているものだということ。

これが今回の気づきですね。

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モエコ

副編集長。福井県出身の大学生。日本近代文学専攻。

好きな言葉:「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」
編集部での役割:ねちねち編集、校正、Instagram、諸々のちいさなこと

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