サウナはととのわなくても楽しい /偏愛道vol.9 サウナ短歌
唯一無二の好き、を突き詰める人への憧れからはじまった企画、偏愛道。
第9弾はサウナ銭湯研究家の北詰 至(きたづめ いたる)さんによる寄稿です。
空前のサウナブームの中、「サウナ短歌」の先駆者として活動をスタートし、以来、60首もの歌とエッセイを紡いできた北詰さん。
ですが、彼女の愛の眼差しは、サウナとも短歌とも違う、「あるもの」に注がれていました。
彼女がサウナ短歌を詠み続ける理由、そして彼女が真に愛するものとは。
サウナ短歌とは
2018年頃から始まったサウナブームもすっかり定着して、誰もがサウナの魅力を知るところとなりました。健康に良いだけではなく、精神的にリラックスできるマインドフルネスの効果もあるところが、人気の理由です。
また、サウナは様々なモノ・コトを掛け合わせて相乗効果を生み出す懐の広さを持っています。 例えば、サウナ後に食べるご飯「サ飯」。サウナに入ることを目的にした旅行「サ旅」。自然の中でサウナを楽しむ「テントサウナ」や「サ滝」など、枚挙にいとまがありません。
そんな中、私が偏愛しているのは、サウナと短歌を掛け合わせた「サウナ短歌」です。サウナで感じた気持ちや、出会った人々などを短歌で表現しています。
サウナブームが始まった頃、「サウナ」と同時に「短歌」にもハマった私は、作歌の難しさに直面していました。短歌を詠みたくても言葉が出てこないのです。
ところが、サウナに入るとスルスルと言葉が出てきて、あっという間に短歌を作ることができました。おそらく、サウナの癒し効果のおかげだと思います。リラックスした時にアイディアが浮かびやすくなった経験のある方は多いでしょう。熱いサウナの中で “無” になっている時、冷たい水風呂の中で頭がキンキンに冷えた時は、脳が冴えわたって短歌のアイディアが生まれやすくなります。
そうして、サウナと短歌の相性が良いことを知った私は「サウナ短歌」を始めました。
サウナ短歌は面倒くさい
ところが、短歌を10首も作ると、私のアイディアは枯渇しました。正直に言うと、サウナ短歌を始めて4年近く経った今では、サウナ短歌を作ることが苦痛です。
もうリラックスしても新しい短歌はスルスルと生まれてはくれません。アイディアの素が無くなってしまったからです。短歌にするための5文字や7文字の言葉が、私の中から枯れ果ててしまいました。
アイディアとは、既存の何かと何かを新しい方法で組み合わせたものです。クリエイティブを語る時によく、ゼロからイチを生み出すと言いますが、全くのゼロから新しい物が生まれることはありません。イチほど大きくなくても、クリエイティブの欠片が必要なのです。そのため、組み合わせの元になる「何か」が枯れてしまったら、新しく素材を探さなければいけません。これは大変な労力がいります。
サウナ愛好家なら分かると思いますが、外気浴をしながらととのっている最中に、短歌の素材探しをする気になれるでしょうか? あの堕落しきった、スライムのようにインフィニティチェアに寝そべっている時間は、何も考えずに心地良さに身をまかせていたいはずです。
私は、「ととのう」という至福の時間をかなぐり捨てて、しょうがなく「サウナ短歌」をやっています。
それでもサウナ短歌を続ける理由
そんな思いをしてまで、私がサウナ短歌を続けている理由。それは、サウナで服を脱ぎ、裸になる時間が、私にとってこの上なく大切だからです。大切な時間だからこそ、短歌にして自分の手元に置いておきたいのです。それはまるで、プラスチックの容器に想い出を閉じこめてタイムカプセルを作る行為のようなものです。
初恋や林檎のような太陽は夜も瞼の裏を染めあげ
松本「林檎の湯屋おぶ~」にて詠める
このサウナ短歌は、長野県松本市にある「林檎の湯屋おぶ〜」でのサウナ体験を元に詠んだものです。「林檎の湯屋おぶ〜」は、北アルプスの山並みを望む自然豊かな場所にあります。露天スペースに置かれたデッキチェアで外気浴をしていると、目の前に木々の緑が美しく輝いていました。もちろん空気は澄んでいますし、周囲に高い建物がないため空は広々としています。心地良さに目を閉じると、まぶたの裏に長野の爽やかな日の光を感じました。そして、光に照らされて赤く染まったまぶたが魅力的に感じられたのです。
目を閉じたまま空を見上げると、まぶたの裏が赤く見えます。きっと誰もが子ども時代に不思議に思ったことでしょう。私も子どもの頃には、まぶたの裏が赤く染まることが面白くて、何度も繰り返し空を見上げたものです。大人になれば、日の光で単にまぶたの血管が透けて見えているだけだと、誰でも知っています。不思議でも何でもなく、当たり前のこととして捉えられるようになるのです。
ところが、裸になってみると、まるでこの世に産まれてきたばかりのように、何でもないことが新鮮に感じられるのです。このサウナ短歌は、子どもの頃の新鮮な驚きを取り戻したことで生まれました。長野の林檎と太陽の赤、そして初恋の甘酸っぱさといった色や香りのイメージを、まぶたの裏に感じた明るさに重ねて作った短歌は、服を脱ぎ裸になったからこそ感じられた世界を表現しています。
私にとって裸になることは、無垢な感性を取り戻す行為です。大人になる過程で身に付いた知識や価値観をリセットして見る世界は、発見に満ちあふれています。目にするもの全てが新鮮に感じられ、世界はこんなに素晴らしいのかと思うのです。
サウナは新鮮な驚きに満ちあふれている
サウナ以外にも、裸になれる場所はあります。一番手軽なのは、自宅のお風呂でしょう。でも、自宅のお風呂では世界が狭すぎます。新しい人との出会いもありません。
極端な例ではヌーディストビーチがあります。こちらは世界中から裸の愛好家が集まるため、良い場所のように思えますが、やはり裸になるのに適した場所ではありません。デリケートな裸体で砂浜にいるのは不衛生ですし、日焼けのケアもしなくてはいけません。
その点、サウナや銭湯は裸になるのにふさわしい場所です。そして、施設によってバラつきのある多様さが、世界を広げてくれます。サウナの広さ、温度、香りは施設によって様々です。水風呂の深さや水質の違いもあります。行く先々のサウナで出会う人々も、私に新鮮な驚きを与えてくれます。銭湯では、初対面にも関わらず親しく話しかけてくれる高齢者に出会うことがあります。彼女たちは、私のことを子どものように扱ってくれます。大人として振る舞うことから解放される時、日頃いかに力んで生活をしていたかに気が付くのです。
サウナでは、自分の裸をさらけ出すだけではなく、他人の裸も目にします。衣服を脱いだ無垢な感性で見ると、人の裸の素晴らしさに感動させられます。特に、女性のバストは芸術的です。重力に逆らい宇宙の法則を無視したかのようなロケットおっぱいも、この世に実在するのです。 美しさは、若さの中だけにあるものではありません。テーピングされた年老いた体にも、美しさを見つけることができます。背骨を挟むように縦に長く貼られた2本の布テープにどんな効果があるのかは分かりませんが、お湯でふやけた肌とベージュのテープの一体感は、まるで芸術作品のようです。粘着力が弱くなってはがれかけたテープをぴらぴらさせながらお風呂からあがろうとしているお年寄りの背中は、愛おしさも感じさせます。
こういった発見を忘れてしまわないように、サウナで見た世界を短歌の中に閉じこめておくのです。
サウナに入るのは裸になるため
サウナに入る目的は、多様です。最初に述べたとおり、サウナはそのまま楽しんでも良いし、好きなモノ・コトを掛け合わせて楽しむこともできます。最近では、サウナと町おこしを掛け合わせた「地方創生サウナ」も出てきました。サウナは、その懐の広さで社会問題までをも包みこむことが出来ます。
しかし、私にとってサウナとは、裸になるためのちょうど良い口実です。社会問題を解決したいとか、廃業していく銭湯を救いたいといった立派な志はありません。また、フィンランド式のおしゃれなサウナに入って「ととのいたい」訳でもないのです。水風呂があっても無くても、裸になれればそれで良いのです。それほどに私は、服を脱いで裸になる時間を愛しています。
サウナ短歌は、現在 Instagram で公開をしています。短歌と一緒に、短歌にまつわるエピソードを書き起こしたエッセイが付いていますので、短歌に馴染みのない方でも楽しめます。
また、サウナ短歌をまとめたZINEを、下記の2カ所で販売しています(2022年6月現在)。Instagramに掲載していない書き下ろしの短歌もありますので、在庫がある内に是非お求めください。
サウナ短歌ZINE「follow me to the Sauna」販売店
・MOUNT ZINE https://zine.mount.co.jp/113
・東京浴場「フロナカ書店街」 https://245tokyoyokujo.com/
北詰至
サウナ銭湯研究家。サウナスパ・プロフェッショナル。サウナに入ってサウナにまつわる短歌を詠む「サウナ短歌」の第一人者。
2018年より、サウナと短歌を嗜む。サウナに入って心身ともに健康になったおかげで、幼少の頃から好きだった事を思い出し、真剣に文筆に取り組むようになる。
2019年に初の著書・サウナ小説「サウナの前はいつも憂鬱」を上梓。現在は、自身の運営サイト「公衆浴場系」でサウナ銭湯コラムを執筆する他、短歌や小説といった創作活動を行う。
Twitter: @kitazumeitaru
Instagram: @kitazumeitaru
サウナ銭湯深掘りサイト「公衆浴場系」:http://kitazumeitaru.tokyo/