素人愛好者による盆栽論 /偏愛道vol.2 盆栽

素人愛好者による盆栽論 /偏愛道vol.2 盆栽

世の中には、暮らしの中で思わず通り過ぎてしまうような“ときめき”に出会い愛する人たちがいます。その“ときめき”を、マジメに向き合ってしまう楽しさを、出会いを、想いを知りたい。「偏愛道」は、そんな企画です。

今回は、「盆栽」を偏愛する、北尾晃一さんによる寄稿です。

盆栽展や盆栽園に行ったことがある読者はほとんどいないだろう。でも、盆栽は意外と身近に売られていて、お正月の前後には安い盆栽がホームセンターで並んでいたりする。値段は1000円前後のものがほとんどで、松であるという事実だけが必要とされているところに買われていくものも多いだろう。そういった中で、きっと売り場の雰囲気づくりのために、ちょっと大きめの8000円の黒松が、お正月に地元のホームセンターで売られていた。中学生にとって8000円の鉢植えはただ事じゃない。すごく特別なものなのだと店に行くたびに見ていた。そして春が来た。夏が来た。芽は伸び切っている。秋が来て、次のお正月が近づいきた。そして値段は……3000円。買った。

盆栽を買ったのは重要なきっかけだった。しかし、それ以上に、盆栽の本やネット記事を読んだり、盆栽展や盆栽園に足を運んだりして知識を身に着けていくうちに、盆栽という芸術の構造的な面白さにハマった。ある芸術に対して持続的に関心を持つようになるのは、何らかの作品に触れたときの感動などの偶然的要素に、知識や考察によって高められる知的要素が上手く絡み合ったときだと思う。この記事で、前者、私が初めて盆栽を買ったときの胸の高まりを伝えることはできないだろうけれど、せめて盆栽の知的な面白さを、ほんの少しだけ共有できればと思う。

一般に趣味の紹介では、身近さを売りにするのが常套手段で、盆栽であればインテリア的な小物盆栽などだろう。しかし、私は、まずは一級品を見てもらう方が早いと思っている。盆栽という芸術が目指しているものが具体的にわかりやすいからだ。盆栽の知的な面白さの手掛かりは盆栽が目指しているもの、それを叶えるために盆栽愛好家が何をしているのかを知ることにある。一級品には、その答えが体現されていることが多い。

※著作権の問題もあって、たくさんの盆栽の写真をここで紹介することは難しい。そこで、たくさんの素晴らしい盆栽の写真が掲載されている「さいたま市大宮盆栽美術館」のホームページへのリンクを随所に挿入した。特に素晴らしいとされてる盆栽の中には、”銘”がつけられているものがある。以下、本文で「」で囲まれているのは大宮盆栽美術館に所蔵されている盆栽の銘であり、ホームページのコレクション写真へのリンクを貼っている。

形について

例えば、3000m級の山々。そこでは厳しい冬の雪と年中吹き付ける強風によって、木々は折れ曲がり、幹は一部枯れ白骨化している(写真1,2)。盆栽の目標の一つは、このような少し非日常的な自然への憧れを再現することにある。そして、人から見た“理想の自然”を盆の上に体現するために、様々な施術を植物に惜しみなく使用していくのだ。この意味で、むしろ西洋庭園の直線的な庭木などよりも人工的といって良いのかもしれない。木を刈り揃えていれば気にならないような枝一本の配置にも作為を要求される。そのためには、時に熟練の技術によって、枝々には針金が巻かれ矯正されたりする。

写真1
写真2

では、わざわざ針金を枝に巻いたりして、どのような樹形を目指しているのだろうか?庭園の木などと異なり、盆栽の型は自由度が高いように思われるかもしれないが、実は型にうるさいのが盆栽である。例えば、「敷島」では、ちゃんと枝の配置などが、幹曲がりの外側にくるというオーソドックスなルールに則っている。また、様々な型があり、それぞれに理想とされるルールがある。「白糸の滝」は、幹から大きく下に垂れ下がった懸崖と呼ばれる樹形の名木である。これも一見破天荒な樹形のように見えるが、懸崖盆栽でよく見られるルールにちゃんと則っている。まず、幹の根本では力強い根の荒々しさ、重量感を強調し、上部は枝葉が密だが、下部に行くと密度が薄い。そうすることで、アンバランスさの中で樹形の安定感を確保している。さらに、深い鉢や根卓も懸崖盆栽でよく見る組み合わせである。このような懸崖の型のルールは、まるで崖上で風雪に耐えているような自然の厳しさを表現する樹形と人間の鑑賞空間との調和を追求してきた中で生じた様式美なのだろう。

樹勢について

盆の上に小さく育てながら、一方で如何に大きく立派に見せるのか、というのも盆栽の魅力だ。あえて非日常的に小さくつくることで、観る人の想像力が掻き立てられ、背後の風景を効果的に想像させることが容易になる。しかし、本来、放っておけば大きくなる木を盆の上で小さく維持するのは木にとって最適な育成条件ではなく、樹勢を保ちながら維持するのは非常に難しい。したがって、盆栽には高度な栽培技術が要求されることになる。

そのために、見えない部分、つまり根の長期的なメンテナンスが欠かせない。山もみじの「紅陵」を見てほしい。地上部分のがっしりとした根の張りからは考えられないほど、驚くほど盆が浅い。このように手入れの行き届いた盆栽では、地上ではがっしりとした太い根を見せつつ地中部分では驚くほど繊細な根がびっしりと生えている。限られた容量の盆上で効率よく栄養吸収をさせるための技だ。このような施術は一朝一夕にできるものではない。どの木も最初は盆に入り切らないような根を持っているのだが、何年もかけて、植え替えのたびに細く繊細な根に置き換わるように剪定されてきたのである。

さらに、盆栽は小さければ良いというものではない。一般的には、幹は下から上へと細くなるのが良い。大樹を見上げるような遠近感を生じさせるためである。また、葉は短く小さい方が良い。葉が大きいと、相対的に幹が細く見えてしまうためである。とはいっても葉の長さは樹種によって決まっている。特に黒松と赤松は葉が長い。以前は葉の成長時期に栄養を絞るなどしていたらしいが、それでは、樹木の健康との兼ね合いが難しい。しかし「二度芽切り」という手法が開発されてから、太く青々として短い松葉を作り出せるようになった。盆栽のように、古そうな園芸にも技術的なブレークスルーがある。

実際、品評会では、その時々の樹木の調子も大きな評価ポイントとなる。健康的に育てるのが難しい環境で育てておきながら、如何に状態をよく保つのかを競うのである。このちょっとひねくれた感じがまた良い。

古さについて

真柏の「寿雲」の特徴はなんといっても白骨化した幹である。このように木の生存に関係のないものを敢えて残すことで樹木の古さを演出しているのだ。すでに枯れてしまった部分のため形を変えることが難しく、個性を発揮する重要な特徴でもある。また、枯れた部分とはいえ、美しい白骨状態を維持するため、硫黄石灰を塗るなどメンテナンスも大切である。放っておくと、苔むしたり朽ちたりするからである。このような長年の育成の結果、盆栽は野生の木とは少し異なる様子になる。適切に維持された白骨化部分や、野生では剥がれ落ちていくはずの樹皮が蓄積した幹は、人の手のかかった期間の長さを示す特徴である。このような古さを表す言葉に“時代”がある。盆栽では“時代”がとても重要で、同じ樹齢の木であっても盆栽としての培養期間が長いものは盆栽としての格が一段上である。“時代”の乗った盆栽にするには日々の細かい手入れが欠かせない。古さを纏わせるためには、人が手を加え続けるというのもまた面白いところである。

生き物の芸術

さて、私が盆栽を異質な芸術にしていると思う最大の特徴を、最後に紹介したい。それは、生き物を素材とした芸術であるということだ。日本屈指の名木「日暮し」は歴代の所有者によって裏表が度々変更されたことでも有名であり、“名木に表裏なし”の言葉も生んだ。この木に代表されるように、盆栽は人の一生よりも長く存在し、その中で、その時々の所有者の価値観に合わせて姿を変えている。しかし、盆栽は生き物であるため、時代によって変化する所有者のニーズに合わせて思い通りに変えられるものではない。幹を曲げたい、背を低くしたい、葉性を変えたい、などは叶えることが難しいし、枝を一本抜くのは簡単だが取り返しがつかない。もちろん枯らしてしまったらお終いだ。その一方で、日々成長していく木に対して、完璧な現状維持を続けることもできない。このような相反する条件の上で、盆栽という芸術は成立しているのだ。盆栽を所有するということは、自分ひとりの所有物になることではなく、その木の長い一生を歴代の所有者と共有する、その一瞬を借りることなのである。

もし、今後盆栽を目にすることがあれば、少し立ち止まって観ていただければ幸いである。そして、その盆栽が醸し出す風景の空間的な広がりを、木と人々の歴史の時間的な広がりを想像してみてはいかがだろうか。

関連HP・図書

l  さいたま市大宮盆栽美術館のHP(https://www.bonsai-art-museum.jp/ja/

2 丸島秀夫・南伸坊(2003)『盆栽 癒しの小宇宙』新潮社

中学生の頃によく読んでいた本。私の盆栽観はほとんどこの本の影響です。

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北尾晃一

twitter:@x3bqu
京都在住の大学院生。専門は古代ウイルス学。変わり続ける人類の知識集合に、短い人生の一瞬だけ関わらせていただく、という盆栽的研究観で日々を過ごしています。最近は古代ヤモリウイルスと格闘中。

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