魅惑の美と私[後篇] / 偏愛道vol.6 仏像

魅惑の美と私[後篇] / 偏愛道vol.6 仏像

「偏愛道」第6弾は、「仏像」を偏愛する れのん さんによる寄稿です。本記事は、[後篇]です。

[前篇]の記事は こちら↓

東大寺の日光菩薩像も私が大きく感動させられた仏像のひとつだ。私は人に対して一目惚れをすることはまずないが、仏像に対しては一目見たままその場に立ち尽くし、まるでその空間にはその仏像と自分しか存在していないかのような感覚に襲われることがある。

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東大寺法華堂 伝・日光菩薩像 「奈良寺社ガイド

東大寺の日光月光菩薩像は粘土製の立像で、腰は曲げずにまっすぐ立ち、服装は袈裟のみの菩薩らしからぬ簡素な風で、胸の前で合掌するという姿をしている。しかも日光月光菩薩像といえば本来、薬師如来像の脇侍として薬師三尊を構成するのが普通なのに対し、東大寺の日光月光菩薩像は不空羂索観音像の脇侍として伝わっている。一目見たときからこれが本当に菩薩像なのか?と不審に感じていたが、実際元々は梵天・帝釈天として造られたものが、のちに日光月光菩薩像に改められたという説がある。

そんな風変わりな両菩薩像は代々法華堂(三月堂)というお堂に伝わってきたが、2011年に東大寺ミュージアムに移されて以来、現在もそこに安置されている。私は初めて法華堂を訪れたとき、そのことを知らなかったため、あるはずの日光月光菩薩像が見当たらないことに困惑し、名高い不空羂索観音像にすら集中できないままお堂を後にすることとなった。そして帰りに軽い気持ちで立ち寄った東大寺ミュージアムで例の菩薩像に遭遇することとなったわけだが、そのときに受けた衝撃は容易に想像がつくだろう。

博物館の柔らかい純白の光に照らされた日光月光菩薩像は、まさに天体の放つ光のように鋭く煌々と輝いており、言葉では言い表せないほどの気品に満ちていた。天平の工芸品に夢中になりながら、ふと顔を上げたその先に現れた菩薩像の立ち姿は、その瞬間に私の知覚を独占し、他のあらゆる存在を忘れさせてしまった。それでも尚知覚し尽くせないほどの美に晒されて、私は次第に感覚が機能不全に陥っていくのを直感した。

私のお気に入りは日光菩薩像だ。この菩薩像は重くずっしりとした粘土特有の重厚さをたたえながら、細部にまで及ぶ繊細な表現と肌のきめ細やかでさらりとした質感をも持ち合わせており、それらの見事な調和によるためか、眺めていると次第に不思議な錯覚状態に陥らされる。

まずこの日光菩薩像はとても柔らかい表情をしている。眉から鼻筋にかけて現れる。三日月型の鋭い影は、柔らかく微笑んだ口元の表現によって調和され、全体として厳しくも優しい印象を与える。

手もこの仏像は美しい。合掌をしている仏像は多々あるが、この菩薩像ほど指の一筋一筋が個性をもっている手は見たことがない。細く長く伸びる指の一本一本はそれぞれに違った顔をしており、それでいて全体としては柔和な卵型にまとめ上げられている。このような繊細で忠実な指の表現は、手と手の間にある若干の空間と相まって、そっと手を合わせる微妙な力加減を間近に感じさせる。その趣の生き写しを目の当たりにすると、気韻生動とはまさにこのことを言うのだろうと、仏師の技量を実感させられる。

衣紋もまた印象的だ。比較的深く刻まれた流麗な衣紋は、布の滑らかな質感と重みをはっきりと感じさせ、その明瞭でありながらも柔らかい表現は、菩薩の表情と親和的で菩薩像全体の優しくも厳しい妙趣を際立てている。隣の月光菩薩と比べてみると日光菩薩の衣は左右対称性が崩されており、また横方向に強い線があらわれている。これもまた微笑みとともに菩薩像に動的で温かい印象をもたらしているような気がする。梵天・帝釈天説が仮に正しいとすれば、私も間違いなくこちらを日光菩薩に選んでいただろうなどと考えてしまう。

仏像の一部を取り上げては魅力を語り、また別の部分を取り上げては語り……を繰り返す、まとまりのない文章になってしまったが、そうならざるを得ないところが仏像の好きなところだ。目を見る、鼻筋を見る、胸を見る、指を見る、衣紋を見る……どこに注目してもそれぞれがそれぞれの魅力をもっており、それぞれから色々なことに思いを巡らせてしまう。そして個々の造形は複雑に結びつきながら全体の美を形づくり、頭では決して解らせないような、儚く脆いが確実にこちらの認識の限界を超えている美しさを、感覚に直接投げかけてくる。だからこそ初めて見たときに受ける最初の感性への衝撃は、果てしなく大きいのだ。

仏像は気迫というか、拝む者に迫る精神性というか、こちらの内面に強く働きかける力をもっている。特に私が好きな奈良の仏像は、このような力が一段と強いような気がして、拝むたびに癒され、どこか勇気づけられる。ただその癒しはいつもある種の絶望感を伴っている。それは仏像が彫られたのも、仏像に精神が吹き込まれたのも、遠い1300年前のことであって、仏像の堂々たる立ち姿から伝わってくる遠大で着実な時間のイメージは、それに対して生じては死に生じては死にを繰り返す人の儚く短い人生を想起させ、自分もその運命から逃れられないことを実感させられるからであろう。仏像の与える時代を超えた美しさは、私を圧倒し勇気づけるとともに、嘆かせもする。古寺を巡って家に帰ってくると、余韻も消え失せ、生の短さと自分の未熟さを焦り嘆く時間が必ずやってくる。何をしてもどうせ死ぬのだから……と感傷的になることもある。そうなると私はいつも、仏像を彫った仏師の姿を想像して逃れようとする。かれらもまた短い人生を生きた人間であったのであり、木や粘土や青銅に魂を憑依させるほどの技術力を身につけて、1300年先まで拝む者を唸らせる仏像を造り上げた。そんなことを考えると、それまで吐いていた弱音も疲労も怠惰も煩悩の何もかもが戒められる気がする。

私の仏像の見方は少し特殊かもしれない。大した信仰心もないくせに、お堂に長居して仏像をまじまじと眺めるのは申し訳ない気さえするが、今となっては仏像は私にとって、日常と非日常をまたいで癒し引き締めてくれる、そんな欠かせない存在となっている。

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れのん

京都住みの大学生。
法学部で法律を勉強しながら、仏像を見るために定期的に奈良に通って心の健康を保っている。奈良から大学に通いたいと考え始めるほど奈良が好き。

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