魅惑の美と私[前篇] / 偏愛道vol.6 仏像

魅惑の美と私[前篇] / 偏愛道vol.6 仏像

魅力に惹きつけられ、夢中になってしまう。言語化し難いほど、心を奪われてしまう。それは、「偏愛」する対象を持つ人のみが味わえる極上の感覚です。「偏愛道」第6弾は、「仏像」を偏愛する れのん さんによる寄稿です。仏像への愛が溢れて止まらず、一記事に収まりきらなかった今回は、[前篇][後篇]の2本立てでお送りします。

まずはじめに、岡倉天心の言葉をひとつ……

薬師寺の金堂三尊をまだ拝んだことのない人は幸せだ。初めて見た時に受けるあの大きな感激を、これから味わうことが出来るのだから。

私はこれまでに、この言葉ほど心の底から共感させられた言葉はない。私がいつからこれほどまでに仏像に心酔しているのかは判然としないが、この薬師寺の薬師三尊を初めて見た際に受けた衝撃は、確実に影響しているように思われる。

初めて薬師寺を訪れた日は風の強く吹きつける日で、金堂の扉は入り口を除いてすべて閉じられていた。お堂の内部は薄暗く、一歩足を踏み入れると、漆黒に薄く光る日光菩薩像が現れた。そして歩みを進めるごとに、薬師如来像、月光菩薩像と次々に現れるものの、立ち現れる三尊に、劣った部分は一塵も見出せず、まさに美しか知覚できないという感じだった。このときはただその美しさに圧倒されるままに終わってしまい、結局この薬師三尊をじっくりと味わえたのは、二回目以降の参拝のことであった。

薬師寺金堂 薬師三尊像『新版 古寺巡礼奈良〈九〉薬師寺』

中央に薬師如来が鎮座し、その左右に日光菩薩と月光菩薩が侍像として立っている。もはやどこから魅力を書き下していけばよいのか分からないが、私は布フェチなので布からいくことにする。私が特に好きなのは、月光菩薩の腕から腕へと垂れ掛かる布の質感と重量感だ。左腕に掛けられた布には充分な重みが感じられ、脇腹の方へそっとたぐり寄せられたかと思うと意外にも豪快に滑り落ち、そのまま流れるように右腕へとすくい上げられている。この重量感と滑らかな質感は、これが青銅でできているということを頭にわからせないほどで、見れば見るほど目眩がしてしまう。目を眩ませるのは布よりもむしろ肌の方かもしれない。布は布だと得体が知れており、その上でそれが布としか感じられず、青銅製だとは信じることができない。それに対して菩薩像の肌の質感については、それが青銅と信じられないとき、自分はそれを一体何であると感じているのかすらも分からない。菩薩の肌なんて、どんなものなのか想像もつかない。それなのに目前の菩薩像が青銅に見えないとき、頭は二重に混乱してしまう。こんなことを仏前で考えては罰当たりだろうなぁ……とは思いつつも、誰かがこの仏像を固いもので叩いて、その冷たい金属音を聞かない限りは、この仏像が青銅でできているということを真に理解することはできないのだろうなぁ……と、いつも考えてしまう。

薬師寺の薬師三尊を見てもう一つ考えてしまうのが、この三尊を彫った1300年前の仏師や当時の人々の姿だ。薬師寺自体が再建によって白鳳時代の姿を伝えているため、つい当時を想像してしまうのかもしれない。この三尊はとても写実的に彫られており、特に薬師如来の右腕が私のお気に入りだ。如来の右腕は真っ直ぐに突き出されているように見えるが、よく見ると腕の輪郭は曲線を描いており、その曲線も腕の場所によって表情を変えている。私ははじめこれに気付いた時、さりげなく自分の腕を同じ型にして如来のものと見比べてみた。すると自分の腕もよく見ると実は曲線の入り混じった複雑な形状をしており、その形状は目の前の薬師如来の腕に忠実に写しとられているということに気付かされた。この仏像ももちろん人体をモデルに彫られたのだろう。そうだとすると、遠すぎて想像もつかない1300年前の人々も、たしかに現在の自分と同じ姿をしていたのであり、自分はその延長線上を生きているのだなぁと身をもって実感させられる。

しかしこうして身体を見比べてみると、三尊はただ写実的であるばかりでなく、抽象化も施されていることが分かる。例えば、指や関節の硬い骨の出っ張りは滑らかな曲線に置き換えられ、写実性を維持したまま人体を超越した美しさが実現されている。

さらに写実性と抽象性とを区別しながら三尊を眺めると、日光月光菩薩像の上半身と下半身では抽象度に大きな違いがあることに気付く。比較的写実的な上半身に対して下半身の衣は曲線を重ねた簡略的で抽象的な表現になっている。なぜ仏師は表現を使い分けたのか……もし写実性を貫徹したとすれば、下半身の布は弧を描かずにストレートに落ちることになるだろう。しかしこれら菩薩像は中尊の左右に立つ侍像だから、真っ直ぐ落ちる衣を写実的にそのまま表現したのでは、あまりにも空間を縦に切り分けすぎたかもしれない。あるいは菩薩が身にまとった装飾品や布が描く流線と、弧を重ねた衣紋の曲線的な表現は相性がよかったからかもしれない。1300年前の仏師が何を考えてこのように表現したのか……完成形があまりにも端正で何処にもわざとらしさがないためか、菩薩が自らの美しい姿を仏師に彫らせたのだという説明が1番しっくりきてしまいそうで、仏師の恣意を挟む余地も許さない。

このような個々の滑らかな美しさの全ては、この菩薩像の全体が描く独特な流線によってまとめあげられ、生き生きと伝わってくる。抽象化され人体を超越した美しさを備えた肉体は神秘的な印象を与えるが、薬師寺の薬師三尊はそれでもなお高度の写実性を保っている。だからこそ現実味のある神秘性が実現され、他の仏像では経験できないほどの感激を呼び起こすのではないかと感じる。

後篇 に続く。

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れのん

京都住みの大学生。
法学部で法律を勉強しながら、仏像を見るために定期的に奈良に通って心の健康を保っている。奈良から大学に通いたいと考え始めるほど奈良が好き。

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