小松左京『地には平和を』〜SF作家はいかに戦争と向き合ったか〜/ 点綴会vol.5/〈第三世代〉戦争再考計画2023
アイキャッチ制作:宮川駿介
点と点を綴り合わせて線を描くように、本を起点にした対話によってテーマを深める「点綴会」(てんていかい)。
今回は、毎年マジメジンが終戦記念日にあわせて記事を投稿する「〈第三世代〉戦争再考計画」の一環として、SF小説『地には平和を』を囲んで話し合った様子をお届けします。
この本は、1963年に発表された小松左京による短編で、大学で日本近現代史を専攻する島倉が選書しました。彼の問いかけから、議論は始まります。
〈第三世代〉戦争再考計画
戦争から世代を考える時、戦争経験者は〈第一世代〉、その子どもは〈第二代〉、そして孫は〈第三世代〉として分けられることがあります。その中で、マジメジンに登場する2000年前後生まれの層は太平洋戦争の〈第三世代〉にあたり、戦後の日本で暮らしてきました。
ただ、100年足らず前、私たちがいるこの地に戦争は確かにあって、その記憶を持った〈第一世代〉は今、次々に世を去っています。この過渡期に、私たち〈第三世代〉はどのように戦争を受けとめればよいのでしょうか。
高校の総合学習でこの問題意識を共有した、マジメジン編集長 中野と大学でも日本近現代史を研究する島倉が、2021年夏から継続して行っている対話の場の記録です。過去の記事はこちら。
目次
メンバー
ユキノ:MAJIME ZINE編集部員。広島出身。大学時代は日本近代文学を専攻。執筆記事はこちら。
中野:MAJIME ZINE編集長。大学院で博物館学を専攻。執筆記事はこちら。
島倉:大学で日本近現代史を専攻。MAJIME ZINEでは 〈第三世代〉戦争再考計画に立ち上げから参加。
大木:大学院でデータ科学を専攻。MAJIME ZINEが開催レポートを担当したイベント「超分野大喜利」の運営者。〈第三世代〉戦争再考計画には昨年から参加。
あらすじ
「地には平和を」の舞台は、クーデターによって太平洋戦争が8月15日に終結せず、本土決戦が行われる1945年10月下旬の日本から始まる。
主人公の康夫は、15歳で一個小隊の「黒桜隊」にて戦闘を行っていたが山中で孤立する。大本営が移され天皇陛下も移動したという長野へ向け山中を進むが、敵に撃たれてしまう。一命をとりとめた康夫だったが、そこにいたのは「Tマン」という時間管理庁特別捜査局から来た捜査員だった。
時間管理庁捜査局は、過去を変える技術を開発し、複数の異なる歴史をつくることを可能にしたキタ博士を捜査するため、キタ博士がつくった戦争が続く世界に捜査員を送り込んでいたのだ。Tマンは康夫にこう告げる。「君が十五歳で死ぬべき世界は、あと四時間で消滅するんだからね」(p.44)。傷が悪化し遠のく意識の中で康夫は、手ににぎっていた黒桜隊の襟章がなくなっていることに気づく。
そして、ついに時間管理庁特別局に捕えられたキタ博士を、F・ヤマモト局長が尋問する。なぜキタ博士は複数の歴史をつくったのか。そしてなぜ時間完了庁はそれを問題視したのか。二人の論争から徐々に明らかになる。
最後は、長野の志賀高原の場面である。商社に勤めて6年目の康夫は、妻と息子と休暇中だ。その時、息子が黒い桜の襟章を康夫に手渡す。そのとき康夫には、「一切合財が、この時代全体(傍点)が突如として色あせ、腐敗臭をはなち、おぞましく見えた」(p.56)。その襟章を康夫から受け取った息子に、妻は言う。「康彦ちゃん。これもうパイしようね」。「うん、ばっちい、パイ」。
(参考:小松左京著、『地には平和を』、1980年、角川文庫、p.7-57)
島倉がこの本を選んだ理由
島倉
康夫は、戦争が続いているのは正しい歴史ではないと主張するTマンの「……八月十五日の無条件降伏が唯一の正しい歴史だという事が、わからんのか?」という発言に、歯噛みしながら返答します。
「お前らに、そんな事をいう権利はないぞ」(原文は傍点あり)(p.43)
他方、キタ博士は、複数の歴史をつくる博士を狂人扱いする局長に、以下のように主張します。
「なぜ、歴史がいくつもあってはいけないのだ? それが可能なら、並行する無数の歴史があってもかまわないじゃないか? ……最も理想的な歴史的宇宙をえらぶ権利がなぜないのだ? 権利は常に可能性によって押しすすめられる。それが可能になったならば、その時は我々もまた、理想とする歴史をえらぶ権利がある」(p.52)
博士と康夫も、「お前はそんなことを言う権利はない」と言うんだよね。 ここから、第三世代は「戦争しないことが正しいんだ、戦争はあの時点で終わったことが正しいんだ」と思ってしまうけれど、第三世代がそんなことを言う権利はないのかなと思いました。 康夫と博士の言葉から、戦争を一緒に考えたいです。
狂人・キタ博士の歴史観
大木
「理想とする歴史をえらぶ権利がある」と書いてありますけど、これは「歴史」を選んでるのかな。
キタ博士がやっているのは、歴史をどこかで変えて、その変えた時点からの社会、世界、宇宙が出来上がっていくという実社会シミュレーションです。 だとすると、キタ博士が選ぶのは理想とする現在であり、理想とする歴史ではないんじゃないかと思います。
島倉
キタ博士は、現在を生きてない人という感じはしましたよね。過去が変わらないと現在は変わらないっていう、連続性をすごく持っている人がキタ博士だなと思うんです。
彼は「悲惨でない歴史があるか?」(p.50)と言っているんですよね。 この歴史観は面白い。彼にとって、歴史は常に悲惨。だから、大事なのは悲惨な歴史から何を勝ち得るかというところで。博士は、日本の敗戦は何も勝ち取っていないからダメな歴史と評価しているらしいですよね。
「ずっと変わらないものってなんなの?」
島倉
僕は先週行ってきた世界史の教育実習で、「教科書は変化がはじまったことしか書いてないけど、みんなは変わらないことにも注目しよう」 と教えてきたんですよ。例えば、教科書に漢の武帝が紀元前119年に塩の専売を始めたと書いてあるんです。それが、いつまで続いてたんだろうと思い、調べたら2014年まで続いていたんです。
中野
えーー!
島倉
2000年続いているんですけど、教科書には前漢の時に1回出てくるだけなんですよ。変わらないことは教科書に載らないけど、そういう意識は大事だと思います。 歴史を学ぶ意味も、そこなんじゃないかな。「ずっと変わらないものってなんなの?」を考えること。
そう考えると、キタ博士にとって歴史において変わらないものは、悲惨さなんですよね。
大木
今の話は面白いなと思いました。
キタ博士の悲惨さの話の後に 「日本という国は、完全にほろんでしまってもよかった。国家がほろびたら、その向うから、全地上的連帯性をになうべき、新しい“人間”がうまれて来ただろう」(p.51)と言っています。
つまり、全部変わってしまった方が良かったという。これは、島倉くんが言っていたことと、正反対の価値観だね。
康夫の権利
大木
最初に島倉くんが「この本を選んだ理由」であげていた、キタ博士も康夫も「お前はそんなことを言う権利はない」と言っていることについて、同じことを言っているけど二人の立場は結構違うよな。
康夫がそう主張するのは、その歴史の中に生きている人間だから。対して、キタ博士はその世界には生きていない人で、複数の世界を全部外の立場から眺めることができている。
一方で、キタ博士が「そんなこと言う権利はない」と言うけれど、じゃあなぜあなたが理想の歴史を選ぶことができるんだ、というのはすごく引っかかりました。
中野
博士の主張する権利と康夫の主張する権利は、 それぞれ違う権利を言っている気がするんです。
康夫はTマンのタイムリープの話とか、歴史のレイヤーが博士のせいで何層にもなっていることを知らないわけですよね。その時点で、Tマンの歴史の説明に対する反論として、「そんなことを言う権利はないぞ」と言うのは、おかしくないですか。Tマンの説明する歴史云々が、この混乱している康夫の頭に理解されているとは思えなくて。
康夫はこうも言います。「お前らに、そんな事をする権利があるのか」。「俺が、何のために闘い、何のために死ぬと思うんだ」(p.43)。つまり、康夫が自分の戦いをして自分で死んでいくことを、止める権利はお前らにはないんだよ、と。康夫が主張する権利は、自分のために死ぬ権利だし、博士の言う権利は、また別の権利なんだろうな。
大木
確かに中野さんが言ったことには納得です。
このシチュエーションで考えたら、康夫が「正しい歴史」ということに対して否定しているというより、 8月15日の無条件降伏に対して、「そんなことを言う権利はない」と言っている方が近い気がします。
そうすると、その後に続く康夫の「この世界を破壊しようっていうんだな?」(p.43)というセリフからわかるように、戦時中の少年にとっては、日本が降伏することが、自分の世界が破壊されるぐらいの衝撃だったという読み取り方もできるのかなと思いました。
ユキノ
そうだよね。だって、康夫は「せめて天皇様のおそばで死なせてくれ」と言う人ですもんね。
キタ博士の権利
島倉
じゃあ博士の権利はどうなるんですか。
キタ博士にとって、「僕には技術があって歴史を変えられるんだから、別に変えたっていいじゃない? 歴史を変える権利を侵害する権利はお前たち(局長たち)にはないよね?」 ということなんですか。歴史観という、個人の自由みたいな。
ある意味歴史家は、こういう生き物かもしれませんよね。「歴史はこうあるべきだ」と思っているから、 そっちの歴史を作りたいという人じゃないですか。でも、史料的な限界がある。じゃあ、歴史を変えてしまえ、ということですよね。
中野
島倉くんに、そこはめちゃくちゃ聞きたかった!
さっき「歴史の中で変わらないものに注目した方がいい」って言ってたよね。それと同時に、「キタ博士にとっては、悲惨さが変わらないもの」だとも言っていたよね。
でも、それは違うんじゃないかな。塩の専売は、本当にずっと変わらなかったと思うんだよ。でも悲惨さというのは、 キタ博士のストーリーの中で「変わらないもの」。
まさにこれが、単一の歴史と理想とする歴史の違いなんじゃないかな。
島倉
キタ博士は、歴史家としてはダメじゃないですか。むしろ哲学者、思想家っぽい。例えば、「塩の専売」という出来事は解釈できないけど、「悲惨さ」は解釈できる。
中野
この物語のずっと底を通っているモヤモヤ感は、 「そもそも歴史って誰かが作ったものじゃん」ということ。この小説は、歴史に対するアイロニー(皮肉)なんですかね。
康夫と博士は小松左京の中にいる
島倉
最後のシーンのように、黒い桜のバッチ(=過去の戦争)を投げ捨てることが、つまり正しい歴史じゃないですか。
ユキノ
「パイ!」という感覚で、アメリカと戦っていたことを忘れて、アメリカのような資本主義社会を目指してバブル期や高度成長期を迎えた日本人のメタファーなのかとすら思った。
大木
だから「その他一切合切が、この時代全体が突如として色あせ腐敗臭を放ち、おぞましく見えた」んですかね。
ユキノ
はあーー!そういうことか。
戦中の価値観と戦後の価値観の断絶をすごい感じさせられましたよね。SFとして書いているけど、多分こういう断絶を、自分の中に抱えた人は必ずいたんだろうね。
大木
解説には、「十四歳という多感な時期に終戦を迎えた小松左京にとっても、もし戦争終結がもう少し延びていれば、自分も少年兵として戦争に駆り出され、命を落としていたとの思いが強くありました」(P. 267)とありました。
これは、康夫への小松左京の自己投影なんだろうな。小松自身にとっては、戦争を続ける康夫という人生も、多分ある程度は生きているんじゃないかな。僕自身も、「大学院に行かないで就職していた未来はどうだっただろう」みたいなことは考えます。
実際起きなかった歴史と共に自分は生きているんじゃないのかな。結構僕は、リアルだなと思いました。
ユキノ
確かにな。しかも、もう1人の自分の未来は誰にでもあるわけだけど、解説に引用してある小松の「運よく生き残ったものは、『死者との連帯』をどう処理すればいいのか?」(p.268)という言葉が、特に重いよな。
島倉
今も、生き残った方を中心に慰霊をするじゃないですか。その連帯は、今も生きているんだろうな。
ユキノ
私たちは、死んでいった人の遺志が、「もう二度とこんな悲しいことは起きてほしくないです」の一つしかないという風に思って育った世代だけど、ずっと連帯の中にある人たちが聞く死者の声は、多分違うものもいっぱいあるんだろうな。小松左京の、死者と一緒に生きてきた自分のifが、投影されているのが康夫なんでしょうね。
大木
そう考えると、キタ博士のやっていることは、戦後を生きる小松左京自身なのかなという気もします。
小松左京は戦争が続いた世界を生きたわけではないけど、生きたかのように思い描きながら現実の世界を生きて、戦争が続いた世界と現実を自分の中で統合していた。
ユキノ
SFという想像でいろんなifの可能性を拡大してみるけれど、結局、20世紀の歴史的な傷に囚われているという、自嘲めいたものも感じます。
第一世代の分裂、第三世代の分裂
ユキノ
あとがきに「玉砕だ決戦だと勇ましいことを言うなら、一度くらい国を失くしてみたらどうだ。だけど僕はどんなことがあっても、決して日本人を玉砕などはさせない――そんな思いで書いた」(p.270)という小松の発言が載っています。彼の中の葛藤が、密に小説に反映されているんでしょうね。
大木
「失くしてみたらどうだ」というのは皮肉で、 どっちかというと、無条件降伏をした後の、その後の日本や世界を作ってきた人々の日和見主義を批判しているのかな。
ユキノ
なるほどな。中途半端に生きざるを得ないことを強制された人が言う、「いっそ極端な未来だった方がこんな苦しいことを思わずに済んだのに」という感覚なのかもしれないな。
その中で、果たしてどうやって第一世代はアイデンティティを確立させていったのかと思うと、すごく怖い感覚があるんですよね。
私自身、無意味なことがかっこいいと思っていた文学部生から、生産性を上げろと言われる社会人になってみたのでさえ不気味な感覚があるけど、死にに行けと言われていたのが、迎合しに行けと言われるのなんて、もっととんでもない感覚だよな。
島倉
第一世代はそういう分裂を抱きながら生きてたんですよね。
ユキノ
本当に。しかもその中で小松は、自分のことを博士に重ねて狂人と書きながら、ここまで書けてしまうような不思議な冷静さも保っているじゃないですか。本当の意味ではぶち壊れていない。けど、壊れかけながらずっと保たれてきている。
島倉
で、博士も小松左京もだけど、康夫もまた小松左京じゃないですか。
ユキノ
あーー!
島倉
小松は、もしキタ博士が変えた世界だったら、康夫のような立場の自分は死んでいただろうということですよね。つまり、彼の中に戦死を望むもう一人の自分がいつまでも同居している。そのような自分と内部で同居しながら平和な世界を生きて作っていくというのが、第一世代のすごさですよね。
大木
この小説が発表されたのは、1963年じゃないですか。だから、第一世代に向けて書いているんだと思うんですよ。キタ博士にある程度小松自身を投影しているんだとしたら、 自分自身は歴史を作り替える狂人で、他の人が普通の人だとすると、普通の人は「戦争が続いてたかもしれない可能性」をもはや考えないで生きている。
つまり、第一世代が持ち得る分裂を、見ていない、あるいは感じていない第一世代に向けて、これを書いているんじゃないかな。 それで、これを第三世代の我々は、どう読むべきか。
島倉
大木さんの意見がめちゃくちゃ面白い。これ、第一世代の分裂をあえて煽る本ということじゃないですか。
そして第三世代もまた、平和な時代を生きる自分と、戦争の時代を生きるあり得たかもしれないもう一人の自分に分裂しています。それはなぜなんだろう。戦争を経験してないですし、戦争体験もリアルタイムで聞いた世代ではないはずなのに。
だから、戦争は風化してないんですよね。
ユキノ
やっぱり我々が小松のような第一世代になってしまうかもしれないという恐れがあるからじゃないですか。
小松とは反対に、平和が一番だと教えられてきたのに、ある日敵を殺せという価値観になったら、違う分裂が起こり得るかもしれない。そういう、ウクライナを見ていて思うような不安を投影しながら、第三世代の人間も内部で分裂しながら読んでるのかなと思いました。
最後に(島倉)
戦後日本のアイデンティティは戦争を否定すること。8月15日の無条件降伏は正しい歴史である。戦争第三世代にとっても戦争とは否定する対象である。戦争でない状態が平和である。
「康夫」と「キタ博士」はいずれも戦争を否定しません。しかし彼らは決して戦争したいわけでもないのです。ただ康夫という戦時下の少年にとって「国のために死ぬこと」は「ほこり」であり、まだ幼く戦争しか知らない彼にとって終戦は「世界の破壊」であるのです。そして「キタ博士」にとって、無条件降伏という「中途半端」な戦争の終わり方は「中途半端」な歴史の始まりであります。
そんな考えを持つ彼らは「軽蔑と憎悪」を向けられる「狂人」なのでしょうか。戦後日本を生きた小松左京にとって、いや、戦争を生き延びた戦争第一世代の人々にとって「康夫」も「キタ博士」もあり得たもう一人の自分、心の奥底に潜むもう一人の自分なのでしょう。本土決戦や一億玉砕は彼らにとってあり得た未来。だとしたら「正しい歴史」とはいつ誰が決めるのか。「本当の歴史犯罪者」とは誰なのか。
戦争第一世代の声をただ「平和主義」にまとめあげること、これは過去への誠実な向き合い方なのでしょうか。戦後世代が「パイ」と投げ捨てた「本土特別防衛隊」の黒い桜の襟章を今改めて拾いあげたい。決して「ばっちい」など言わずに。
・・・
次回は、今回のメンバーが議論を踏まえ、「戦争」をテーマに選書します。記事はこちら。
中野多恵
編集長。大学院生。芸術コミュニケーション専攻。
好きな言葉:「手考足思」(河井寛次郎)
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