心を燃やすと社会が変わる?わたしたちの研究の価値とは—第7回超分野大喜利開催レポート

心を燃やすと社会が変わる?わたしたちの研究の価値とは—第7回超分野大喜利開催レポート

大喜利。

投げられたお題を、ひねりを効かせた一言で打ち返す、爽快なあの演芸です。お茶の間でよく見る、お笑い芸人や落語家のとっておきの一言も良いですが、それを様々なフィールドからわらわらと集まった研究者たちが行ったら……?

実現しました。それが、「超分野大喜利」。京都大学の大学院生を中心に運営されている超分野大喜利プロジェクト主催のもと、大学院生、大学院を卒業した若手研究者・社会人が膝を突き合わせて(オンライン)、3時間に及ぶ知的攻防戦を繰り広げました。

お題は、「価値ある研究とは何か?」。

わたしたちの生活をよりよく、便利にしてくれる道具たちは、その道の研究者たちの絶え間ない努力によって生み出されています。しかし、社会に還元できる研究だけが、価値ある研究なのでしょうか。そもそも、価値ってだれが、どこで、どうやって決めるものなんだろう?という素朴な疑問にも立ち返りながら、厳しくも豊かなアカデミアを泳ぐ研究者たちが考えます。

今回は、超分野大喜利の第7回目。この記事は、MAJIME ZINEが密着したグループの議論をレポートしたものです。ぜひ最後までお付き合いください!

テーマ:「大学が創る価値」

話題提供者:桑島 修一郎 先生(京都大学大学院総合生存学館 特定教授)

私は物性物理学の研究者として働きはじめ、のちに大学と企業、政府をつなぐ産官学連携の仕事へ移りました。霞ヶ関での政策立案や大学に戻って産官学連携に関わる仕事を通して、大学の持つ意味や価値が学外の人々と充分に共有できていないのではないか?と思うようになりました。

その一方で、イノベーションに対する大学への期待が増大している現実も実感できます。第6期「科学技術・イノベーション政策基本計画」が象徴的ですが、従来の企業との共同研究や人材交流から大学発スタートアップまで対象が多様化しており、社会に対して大学から新しい価値を発揮してほしいという表れだと思います。

今回皆様と議論したいのは、大学の「価値」についてです。日頃から大学研究に関わる皆様には、自分の研究や大学に蓄積された知の価値をどのように考えているのか、その価値をどのように大学外の人々に認識してもらうかについて対話をしていただきたいです。

大学を土壌、研究をその土壌から収穫できる素材のように例えると、より大きな価値を社会に創造するための方法は、優れた素材を生産するか(素材の特化による価値)、複数の素材を料理として提供するか(素材の統合による価値)になると思います。大学発スタートアップなどは前者に、産官学を巻き込む国家プロジェクトなどは後者に相当するでしょう。日々優れた素材を生み出すことに邁進している大学研究者からみると前者との親和性が高いと思われますが、しかし、最終的にイノベーションとして評価されるまで到達するには、異分野融合や学際研究を通して、優れた素材の統合による新しい価値の創出が必要かもしれません。

【京都大学大学院総合生存学館 特定教授 桑島 修一郎 先生 略歴】

2000 年九州大学大学院理学研究科博士後期課程修了。京都大学大学院工学研究科助教、講師を経て、2009 年京都大学産官学連携センター准教授。2010 年より経済産業省(産業技術環境局)技術戦略政策官としてイノベーション政策に従事。2012 年から京都大学産官学連携本部特任教授として産官学連携支援を担当、2021 年より現職。
研究・イノベーション学会理事。博士(物理学)。

参加者

下重幸則:
京都大学学術研究支援室URA。薬学で学位取得。創薬を志し製薬会社に就職したものの薬をつくれず現職へ。研究支援とは何か、悩んでいる。貝が好き。


なかい:
社会人学生として心理学を専攻し、「死の認識は心にどんな影響を与えるのか?」を研究する傍ら、大学職員として産学連携を支援している。最近、学業が本務で仕事が兼務だと気付き、「バイト多めの学生」という設定で生きることに。

あやの:
大学3年。現在は医学系研究を行っている。将来どのような道に進もうか模索中。何かの形で社会貢献をしたい。散歩と美味しいものを食べるのが好き。


げんと:
農業団体に勤務する傍ら、ビジネススクールにてMBAを修得中。20歳の時に挫折を経験し、人生に迷っていたところを農業に救われる。食農を通じ、誰も取り残すことなく、すべての人が豊かに生きれる社会を構想し、未来に紡ぎたい。


しおやま:
超分野大喜利運営担当者。専門は学部は日本女性史、大学院からは比較教育学で、インドのジェンダー教育研究をしている。幼少期から時代、国、ことば、分野などのボーダーを超えることに快感を覚えている。最近、インドでの新生活が始まりわくわくしている。


しのはら:
大学院修士2年、20歳まで大阪を拠点にプロダンサーとして活動。それ以降、人生で初めて勉強をしてみようと思い、4年間の宅浪を経て大学へ。現在は金融市場を通じた投資活動の中で貧困削減に寄与する新たな仕組みを模索している。

大喜利の回答


今回の大喜利のお題は「価値ある研究とは何か?」です。みなさんの回答はこちら。

あやの

社会に利益として還元できるもの」が価値ある研究。

私のバックグラウンドが医療系なので、研究をわかりやすく社会に還元できます。例えば、治療法を確立すること、病気の原因を見つけることなど。文系の方だ、研究しているトピックを社会に還元するのが難しそうなイメージがあります。

げんと

僕は「生命の経済」と書きました。これは、人間の生命維持に必要不可欠なものに国家は投資して、経済を築いていくべきというジャック・アタリーの考え方です。 最優先になりそうなのは、経済をしっかり組み立てることかなと思います。

なかい

私は「ロマン」としました。こうあってほしいという希望ですね。 今の大学の基礎となったアカデミーアは、ソクラテスの理念、真実とは何かを追求するために、彼の弟子たちが作った教育施設でした。大学という存在の根本にはその理念があると思います。真実って実はすごく良いものがあるんじゃないか?と探求するロマンが価値なんじゃないかな。

しおやま

心を動かさせる研究」にしました。

私が研究している比較教育学では、発展途上国に先進国の教育システムを取り入れたとき、そこで生まれるエラーの原因や改善法を、それぞれ国の視点から考えることがあります。そんなときに、「あれ?私達が考えてきた普通って本当に合ってるのかな?」って心を動かさせるものが価値だと思います。目に見えるエラーは、きっと表面的なもの。自分の前提を覆させることが価値ですかね。

下重幸則

納税者に“へぇー”と思わせる研究」にしました。歴史の中でずっと繋がってきた意味を考えると、研究はきっと人間の好奇心を満たすために存在するんだろうと思いました。

しのはら

セレブの度肝を抜く研究」。研究の価値を自分に問いかけたときに、とにかく外部資金が取りやすい研究のために焦ってテーマを探すことがあって、プラクティカルなところに自分の動機があるかなと感じる節があります。


ここからは、問いを中心に議論していきます。

問い1 自分にとって研究することの価値とはなにか?


価値とは、内発的な動機?

しおやま

私のもともとの研究分野は歴史学で、明治時代の薙刀と女子教育をやってました。でも大学院進学を考えたとき、「これでは人の命を救えない」って思ったんです。5、6年前は、実益があることが価値のある研究だと思っていて、歴史をなぞるだけで何か貢献できるのか、なんて悩んでました。

でも、今の専攻である社会科学という、全然違う分野に入ってまた気づいてしまったんです。「あれ、私の今やってる学問でも、人の命は救えない」と。そこから自分にとっての研究の価値は、「自分のワクワクする方向に動くこと」だと思えるようになりました。

下重幸則

私は病気を治す薬を作りたくて薬学の道に進みました。が、製薬会社に長年勤めるうちに業界的にネタ切れを起こしていると感じるようになりました。今回のコロナワクチンを例にしても、日本企業だけでは独自に作れなくて、アイディアを大学に求めだしたよね。そんなきっかけで「そんなに大学大学って騒ぐなら、いっそのこと会社を辞めて大学に行ってしまえ」と思い立って、今があります。

なにもすべての学問が人の命に直結するわけではないし、万人が「へぇ」と思う研究なんてないんですよね。だから、自分にとって面白ければいいんじゃないですかね?

あやの

私が脳神経科学の研究を始めたのには、深い意味はありません。研究ができればどの分野でも良かったんですが、1年生の時に今の研究室が学生アルバイトを募集していたのを偶然見て、「お金もらえて研究できるんだったらいいやん」と。それでやり始めたら面白くて。

今、研究が自分に価値を与えてくれています。例えば学会に申し込んでポスター発表をするってなったら、誰かに必要とされていることを感じる。こういう活動をしててよかったってか、自分のしていることが正解かもしれないって、自分を世の中に価値づけてくれる感じですね。

しおやま

「価値」って日本語では一つの意味かもしれないけど、英語に訳すとどう表すかが気になってます。お金に価値を見いだす人たちはMoneyと訳すかもしれない。ワクワク感に価値を持ってる人はExcitementとかにしたかもしれないねって。どんな言葉に訳せるか考えてました。

なかい

「人生100年時代」が謳われる今、ワクワクすること、「生きがい」が注目されているのですが、「Ikigai」が英単語として成り立っているぐらいに曖昧で訳せない、日本独特のものだと精神科医の人が考察していました。それだけ日本人は「どうやって生きるか」に着目してきたと言われていて。なので、僕は研究の価値とか生きる価値にも、日本人独特の何かがあるんかなって思いました。

げんと

人間視点で考えれば、価値とは、今までの記憶と出会った対象の相対的な比較です。ワクワクすることや未知のものに圧倒させられたり驚かされたりすると、価値を感じると思います。でもアリストテレスなんかは普遍的な視点で「価値」を捉えています。その普遍的な視点を獲得したいっていうのが、自分が大学院に行く理由です。

僕はいわゆるリベラルアーツとか、事業創造を学んでいます。リベラルアーツってよく「教養」と訳されるんですけど、そうではないと教わりました。人間社会を洞察する技術のことだと。アダムスミスの国富論、ルソーの社会契約論から資本主義とか民主主義ができて、現代社会のオペレーティングシステムになっている。それが機能しなくなっているなら、どこかに欠陥があるんじゃないかとか。そういう洞察の上で、今後のビジネスの論点を与えてくれるのが、自分が研究することの価値かなと思っています。

しおやま

社会が進むべきベクトルの方向を考えるのが、社会科学であると理解できました。でもこの方向性は、座標が重要、軸が重要だと認識されていて。つまり経済学の人たちが、いくら動くべき方向を示したとしても、座標がなければ意味がない。 自分がやっていた歴史学は社会にとって意味がないと思っていたけれど、私は、「明治時代にどういう女性がいたのか」とか「なぎなたを通してどんな社会が成り立っていたのか」っていう場、矢印が指し示す場を作っていたんだなって思ったんですよね。でも、説明するのは難しい。

しのはら

学生として日々を過ごしてるとき、自分の頭の中はどんな思考が巡ってるんやろうかって考えました。 僕は大学院生で、毎月いくらかお金を補助してもらわないと生活が苦しいのは割と本音で、勉強よりもまず金をくれっていう気持ちが結構強いかもしれない。

ある程度の豊かな生活が前提にあるのかな。いろんなものが整備された上での学術研究なのかなと、桑島先生の話を聞いて余計に思ったんですけど。 そう考えたら価値のある研究って、土壌の部分もものすごく大事ですよね。とにかく手の届く範囲で人間は生きてるような気がしてて、自分はそこまで思考が及んでないな。

げんと

しおやまさんもしのはらさんも、自分と社会の交点に「価値とは何か」の答えはきっとあるんだろうなと。 自分にとっての価値は、どこに問題意識を持ってるか、どういうことをやりたいかとか、そういう内発的なもの。 多分ここに、なかいさんがおっしゃった「生きがい」を見いだして、いわゆるライフワークになると思うんですけれども。

人間って自分自身を見るのがあんまり得意じゃないから、目の前に広がってるものから始めると思うんですよね。そのために社会を見る目を養うこととか、人との対話が大事なんだろうな。

しのはら

めちゃめちゃはっとさせられました。僕の内発的な動機って自分みたいな貧乏な子供を助けたいという想いで。

僕は本当にお金がなくて、20歳くらいから何とかせんとと思っていて、どっからお金もってこようかな、学歴を積まないと仕事も取れへんし、と悩みながら24歳で大学入って。結局、能力も気持ちも勢いもあるのに、お金がないからチャンスがない人を、1人2人助けられたら満足して死ねるかな。なかいさんの「生きがい」も腑に落ちました。内発的な動機って、結構大きなファクターかなと考えさせられたりしますね。


研究の立ち位置は社会のどこにあるのか

なかい

確かに研究って、仕事として成り立ってる部分もあるので、仕事と研究の価値の違いは正直わかんない。大学にいるから特別に考えてしまいますけど。

哲学って、余裕のある人がやるイメージがありますよね。奴隷が居たからソクラテスも考える時間ができたとか、西洋の賢い人もパトロンからお金をもらって研究してる感じなんで。生活のためと、ゆとりがあるから考えようかっていうので、研究の性質は全然違うなあと思いますし。

しおやま

インドのPh.D.の学生さんに「あなたはなんで学生してるの?」って訊いたら、まず「月3万円、国からお金がもらえるから」と答えてくれて。あと「研究者である」っていうタイトルに価値があるとも言ってました。研究そのものが自分に対して価値を与え、アイデンティティを増やしてくれるものらしい。

なかい

そういうふうに、社会的にすごいって言われるものでもあると思いますが、周りが認めるものっていうんですか。うん。私がやってる社会心理学には絶対の正解がないから、賛同する人が多ければ正しいことになる。逆に、反論する者には攻撃する。これって、正しさは最終的に多数決でしか決められないという認識が根本にある気がします。要するに価値ってみんなが認めるものなのかも。

しのはら

自分にとっての価値、社会にとっての価値、大学など組織にとっての価値なのかって、それぞれの視点でずいぶん変わるから、つかみどころなくなるんやろうね。 実は今回、つぎの問いに進む前に桑島先生からもう一度講義がありまして、そこからまた思考の広がりを楽しんでいくコンセプトになっております。


全体に戻り、桑島先生による2回目の講義。

話題提供内容のつづき

京都大学だけ見ても、大学で行われている研究は、いわゆる文系から理系まで知れば知るほどどれもおもしろいです。しかし、異分野が参加する学際研究をデザインしようとすると、言語化・定量化が難しい研究要素、言い換えると、価値を認識されにくい要素は反映されづらいのが現実です。

政策立案の現場では様々な社会科学的手法を用いて定量化の試みがなされていますが、それら認識されにくい価値要素が適切に反映されているのか?懐疑的に感じている人も多いのではないでしょうか。

参照・引用:桑島先生講義スライドより

「高度な数学理論は次第に哲学者の理解を超えるものとなり、両者の間の溝は埋めることができないほど深まっている」と哲学者が吐露するように、もはや数学の方が哲学に肉薄しているかもしれないし、または哲学を超えた領域に達しているかもしれないと考えると、社会におおけるパラドクスの理解に、もう一度、数学を用いて果敢に挑戦しても良いのかと考えた次第である

同講義スライドより

この課題を解決するために、複素数を使った「複素価値」の概念を提案しています。複素数とは、実数で記述できないものを虚数を使って表現する方法で、数学や物理学では一般的なものです。誰もが価値と認識しやすい要素を実数軸成分とするのに対して、認識しにくい価値要素を虚数軸成分として考えるものです。

わざわざ複素数なんかを使わなくても、多様な価値要素を多次元の実数軸に振り分けて評価することはできますが、認識されやすい価値とされにくい価値とはお互い影響しあっている関係性(独立性)が複雑なため、どうしても認識されにくい価値が過小評価されてしまうことが根本的な課題であると考えています。

一方、位相や写像といった概念を利用可能な複素数で考えると、認識されやすい価値要素(実数成分)とされにくい価値要素(虚数成分)との関係性を積極的に捉えることができ、両成分から成るトータルの価値(複素価値)を真の価値として評価できることを期待しています。

引用:桑島先生講義スライドより
引用:桑島先生講義スライドより

皆様の研究においても、自分では大事だと考えているのに、周囲の人からは認識されていない価値があるかと思います。「複素価値」が自らの研究の価値を考える参考になればと思っています。

—この講義を受けて、次の問いに議論はすすんでいきます。

問い2 認識されにくい価値をどうすれば伝えられるのか


価値をとらえる人の意識

しのはら

問2のテーマは「認識されにくい形をどうすれば伝えられるのか」。さっき桑島先生がおっしゃったことで疑問に思ったのが、虚部の部分。

見えやすい実務が横の軸に、見えにくい価値が縦の軸にあって、それをワクワクとかQOLとしたときに、僕らの感覚や感情が大事な変数になっているかもなと考えさせられました。 そもそも認識されにくいとはなんぞやというところと、誰にどうやって伝えるのかについて発想を膨らませてほしいです。

げんと

お話にもあったように、価値を複素数で捉えるのは、今まで自分が認識しているものと、新たに提供されるものとの比較だと思うので。まずは何を価値と感じているのかをつかまなければいけないんじゃないかな。

もう一つ違う切り口で考えたいのが、どんな負を解きたいかという、内発的動機と結びつくものについてです。たとえば、お金に困っていて勉強したいのにできない人がいる、ここに憤りを感じるしのはらさんのような。

しのはら

ネガティブなものを解決したいと思うのは、誰にも共通だと思ってる。 ワクワクとか、やりたいことは枝葉として出てくるけど、「あれ、何とかしたいんだよな」っていう根っこの気持ちもある印象を受けます。

なかい

価値を決めるのって人の意識ですよね。「人の意識」というトピックは、たくさんの議論が交わされています。今まで、意識を時間とか空間とか既存の概念で説明しようとしていたけど、もうそれじゃ無理だって。こんだけ歴史的に考えても無理だから、先生の言ってたベクトルのような道具を登場させて、新たに意識を基本的な単位にしようってことになって。 それに納得するためには、もはや気ぃ狂いながら考えるしかないんだと、数学人のデイヴィッド・チャーマーズが哲学の世界にも降りてきて発言してたりする。新しい価値を認識しようと思ったら、狂うしかないらしいです。

私もどうやってクレイジーな考え方をしようか、ずっと悩んでいるところです。

しおやま

これを考えていたとき、桑島先生は狂っていたんでしょうか。

桑島氏

狂ってたんだろうなと思う。自分でも本当にね。これってね、コロナ禍で家に籠っていたときに思いついたんですよね。結局、狂うというか無の状態になることが一番。これこそ幸せなんじゃないかな。

今の話でね、虚部の部分が何なのかをよく聞かれるんですよ。もちろん主観は入るんですけど、げんとさんがおっしゃってたように、ベクトルだとか面積にあたるものから考えなきゃいけない気がしていて。

それがまさに負の話の、解決したいものに該当してるような。先にそれがあって、それのための横軸成分や縦軸成分は何だったらいいのかって逆の考え方をしないと、わざわざ複素数を用いた良さがなくなってしまうんですよね。その思考の順序とか、思考自体の可変性を表したかったんです。


見えないものを拾い上げる

下重幸則

学問の価値って文化財の価値に似ている気がします。例えば「予算がないから、清水寺と平等院鳳凰堂のどちらかしか維持できません。ランクをつけてください」って言われたら、僕はできない。虚数部分は認識されにくいし、序列をつけられないんじゃないかな。

序列をつけるために価値を定量化すると思うんですけども。その過程って、組織のポリシーに依存すると思うんですよね。価値をどれだけ拾い上げるかの基準を定めるのは、なかなか難しいと思います。

しおやま

見えない価値をどれだけ拾い上げるかが重要だってことですね。私も「価値をどうすれば伝えられるか」の問いに対しては、「見えないもののラベル付け」がベストアンサーだと思っています。

例えば仕事も勉強もしていない人たちに、研究者は「NEET」という新しい価値を授けました。もう一般的に知られている言葉ですよね。ラベルを付けることで、見えてこなかったものに光が当たって、サポートが生まれたり、世の中に認識されることがあると思います。

げんと

これってデザインの考え方に似てませんか?とあるデザイナーの方が、「デザインとは関係を見出すことだ」とおっしゃっていました。 さっき、しおやまさんがおっしゃったラベリングもそうだと思うんですが、どうやって価値や存在を認識するかとか、その繋がりをどうするかも大事かもしれない。

しおやま

過去にそうして、認識されているものを繋いでみたことはありますか?

げんと

僕は、北海道の農家さんが育てた牛と豚を買い取って、お肉にしてもらう仕事をしていまして。実は、乳製品をつくるために改良された牛が、北海道の畜産物の中心なんです。だから、北海道産のイメージはあっても、肉そのものが持つ価値はあまり評価されてないんですよ。今、人口も減ってきていて、肉の価値に限界を感じているのも現状です。じゃあどうしていこうって考えるときに、価値の再定義をして新しい販路を考えなければいけない。答えとしては、食農とか、観光産業と結びつけるとか。

関係を繋げるというデザインの発想が、これからの時代のビジネスを成長させるなと思った経験があります。

しおやま

それで一番難しいのって、価値の基準を作ることですよね。

げんと

おっしゃる通りマジで難しくて。タイミングもあるし、危機感、リーダーの存在、明確なビジョンとか、いくつか要素がありますね。

しのはら

そこに加えるなら、運なんかも相当影響してくるかな。 例えば潤沢な資金があって、MBAとか博士号を持ってるようなすげえ奴らを100人雇ったら何とかなるんちゃうか、なんて安直な発想があったんだけど。 でもこういう要素って、客観性が担保できないというある種の限界がありますよね。担保できないからこそいいのかもしれませんが。

しのはら

僕、親父が牧師なんですよ。「お金とか地位とかの薄っぺらいもので人生を埋めるのは極めて愚かしい」と考えるキリスト教に触れてきた結果、見えないものこそ使ってやろうってフィルターが頭の中にあるんです。30歳になった今も、目に見えないものでどう人の心を掴んだろうかと思うことは常々あって。

学校のテストは20点ばっかりでも、他のところで抜群にぶち抜けてきた自負はあるんです。これなら人にわかるだろうって自信を持てるものですね。そんな僕でも今回の問いの、価値をどうやって伝えるのかって本当に難しいです。 意外と突拍子もないところで、ふっと落ち着ける心の平安を見つけられるんかな。

参加者の皆さんの研究への愛と、学ぶこと、考えることへのリスペクトが感じられるアツいディスカッションになりました。

まとめ

今回の議論を踏まえて、参加者の皆さんの回答はこのように変化しました。

「研究」という言葉には「社会に役立てなければいけない」というコノテーションがいやが応にもついて回ります。しかし、研究者たちも人間です。その研究に社会的価値があるのか、果たしてその価値の追求のためだけに研究者は研究すべきなのか。研究の行き着く先というのは、本当のところはまだ誰も分かっていないのではないでしょうか。だから全ての研究に価値があるのです。その動機は時には好奇心の赴くまま、時にはお金のためでも。

前回の超分野大喜利はこちら ☟

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超分野大喜利プロジェクト

異なる分野を専門とする大学院生や若手研究者・社会人が集い、異分野融合的なおもしろい発想を創発させる対話の場「超分野大喜利」を運営している。

毎月話題提供者をお迎えし、普段の研究や仕事の中で考えている問いに対して参加者の専門分野の視点を活かして一緒に考えることで専門分野を“超”えた視点の視点の創造を目指す。

「超分野大喜利」は京都大学分野横断プラットフォーム事業に採択されており、学際融合教育研究推進センターと学術研究支援室の支援のもとで実施されている。

公式サイト:超分野大喜利プロジェクト
公式Twitter:@choubunya

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