脱炭素社会と脱炭素個人 /第5回超分野大喜利開催レポート
大喜利。
投げられたお題を、ひねりを効かせた一言で打ち返す、爽快なあの演芸です。お茶の間でよく見る、お笑い芸人や落語家によるとっておきの一言も良いですが、それを様々なフィールドからわらわらと集まった研究者たちが行ったら……?
実現しました。それが、「超分野大喜利」。京都大学の大学院生を中心に運営されている超分野大喜利プロジェクト主催のもと、大学院生、大学院を卒業した若手研究者・社会人が膝を突き合わせて(オンライン)、3時間に及ぶ知的攻防戦を繰り広げました。
今回のテーマは、「2050年脱炭素に向けて、暮らしを劇的に変えられるか?」
気候変動への危機感が高まっていることは、改めて言うまでもないでしょう。それはもう、融解する氷の上で逃げ惑う、テレビの中のシロクマだけの話ではありません。近年、度重なる自然災害によって、「人間の問題である」ということをまざまざと見せつけられています。
しかし、そこでほいほいと社会正義を選び取れるほど、個人も社会も柔軟にはできていません。個人にはこれまでの生活があって、社会には集団を維持するためのシステムがある。
それでは、個人と社会は脱炭素のため、
何ができて、何ができないのか。
何をして、何をしないのか。
ここでひとつ、あなたも若き研究者たちと考えてみませんか。
目次
「2050年脱炭素に向けて、暮らしを劇的に変えられるか?」
話題提供 浅利 美鈴 先生(京都大学大学院地球環境学堂 准教授)
~環境教育へのきっかけ~
大学生活のスタートは、意外にも体育会系スキー部での部活三昧だった。しかし、部活動中大怪我をした後、スキーからは離れ、ふと大学・研究室の不夜城や分別もままならないごみを見たときにショックを受けた。そこで、クラスメイト40名ほどでサークル「京大ゴミ部」を立ち上げ、子どもたちへの環境教育や環境配慮の仕組みであるISO14001の取得をよびかける活動を行った。環境問題への関心を学問にぶつけ、京都大学内で廃棄物(ごみ)の研究を行っている研究室に入り、京都市行政を巻き込んでの研究など行ってきた。このようなアカデミックの範疇を超えた経験は、現在の浅利先生の研究と社会活動スタイルへと導かれている。
~人類の進化と炭素の排出~
人間が存在した証拠として、有名なのは貝塚のごみの痕跡といわれている。人類は祖先から、ごみを出し、エネルギーを使って生きてきたと言える。今回のお題は、エネルギーを消費して炭素を出すこれまでの行為だけではなく、吸収する文明にしていくことを考えていきたい。これまでに、コツコツと技術を積み上げてきたが、今後劇的に脱炭素化を進めるためには、二酸化炭素を排出するだけではなく、今まで以上の努力で二酸化炭素排出量を抑え、さらには吸収する仕組みを考え実行する必要がある。
そのための政治的合意として、2015年の国連気候変動枠組み条約第21回締結国会議(COP21)では、国際的な枠組み「パリ協定」が結ばれた。気温上昇はもうすでに起きているが、気候変動を含めた地球温暖化にどこまで歯止めをかけるかを念頭に置いた協議がなされ、その結果、世界の平均気温の上昇を産業革命に比べて2℃より低く保つ目標が採択された。この目標を達成するためには、二酸化炭素排出量、すなわち化石資源の使用量をどれだけ抑えるか、その結果、どれほどの投資が必要かについて諸機関で世界的に考えられてきた。
~未来の脱炭素社会とは~
すでに脱炭素社会に向けた技術的な革新や提案がされ、現実味を帯びているが、この技術の存在のみで解決するわけではない。人々がこの技術をいかに快適に受け入れていくか、どこでどのように暮らすのか、途上国との関連など、考慮していかねばならない点は多々あるだろう。人類は脱炭素化に向けて、非常にハードルの高いことを求められていると言えよう。2050年、参加者がバリバリ活躍しているであろう時代に以上のような変革が起こらなくてはならないことを踏まえて、今回のお題で思考実験をしていきたい。
【浅利 美鈴 先生 略歴】
京都大学大学院工学研究科博士後期課程修了(博士(工学))。京都大学環境科学センターを経て、現職。
環境教育や廃棄物対策(3R)に加え、持続可能なライフスタイル・SDGsなど、様々な分野から地球環境問題について、アカデミックに留まらず発信と交流を行っている。
参加者
さつき(ファシリテーター):
超分野大喜利運営担当者。専門を日本女性史、比較教育学と渡り歩いているうちに高等教育在学が長くなってしまった。現在はインドのジェンダー教育研究をしている。日頃、時代、国、ことば、分野などのボーダーを超えることに快感を覚えている。
ひろあき(ファシリテーター):
工学部出身。小さい頃から宇宙が好きで、その関心は閉鎖環境における心理状態から産業構造まで多岐にわたる。根っからのインドア派だったが、フィールドワークを重ねるうちに性格が変わってきた。
下重幸則:
京都大学学術研究支援室URA。薬学で学位取得。創薬を志し製薬会社に就職したものの薬をつくれず現職へ。研究支援とは何か、悩んでいる。貝が好き。
ゆき:
学部では国際法を学んでいたが、シリア内戦の映画を見てその限界を感じる。その後、ヨルダンとレバノンに暮らすシリア難民に内戦を止める方法を聞きに行くなど回り道をしたが、政治を科学的に分析する国際関係論に関心を持ち、進学。内戦の和平交渉への市民参加について研究中。
おおき:
超分野大喜利運営担当者。ひとやものが相互作用し合う複雑系について研究している。高校のときの得意科目は日本史。最近、大好きな高杉晋作のゆかりの地を訪ねて石碑に萌える自分に気づいた。
おおやま:
農業経済分野で主に有機農業について研究しており、焼畑農業は島根県の圃場で実践している。日本の農業をより良くしたいと思い色々と思案しており、理論と実践の両面からアプローチ。好きなことは、美味しいお酒や美味しいものを作り食べること。
大喜利のお題。どどん。
「2050年、脱炭素化に向けて社会の何が変わる?」
若手研究者たちは、どんな回答を出してくるのでしょうか?
大喜利の回答
「いっせーの」の掛け声と同時に、zoomの画面上に一斉に現れた個性豊かな回答フリップたち。
それぞれの回答の真意を見てみましょう。
しおやま
脱炭素フェミニズム。
女性は家事をして、男性は外で働くという「性役割」は、28年後も続いていると思っています。家事(買い物、料理、洗濯など)をする女性の方が、男性より炭素を多く排出すると思います。脱炭素化が進んで、CO2排出にペナルティがつけられるなど、管理される社会になったら、女性の方が罰を受けやすい。もし女性が罰せられた時には、反対運動が起きるんじゃないかと思ったので、「脱炭素フェミニズムが起こる!?」とイメージしました。ぶっ飛んだ考えですが。
ゆき
選び方。「脱炭素化によって選び方が変わる」のではなく、「選び方によって脱炭素化になる」と思います。
例えば、銀行が「石炭産業やカーボンフットプリントが多い産業に対して投資をしない」と判断する。個人が物を買うときに、輸送にかかる二酸化炭素の排出量が少ない地域で作られたものを選ぶ。選択をするときに頭の片隅に「二酸化炭素排出量を減らすためにどうしたらいいか」という考えがあることが、前提として脱炭素化に必要なんじゃないかな。
おおやま
人間の欲求とその満たし方が変わるんじゃないかと思います。
若者を見てると、だんだん欲求が変わってきてるんじゃないかなと感じるんですよね。今までは結婚して、車を持ち、家を建てるという所有の欲求の満たし方がある程度一般的だった。でも近年、そうじゃない自分の欲求の満たし方を構築していくことそのものに楽しさを見いだしているんじゃないかと。
ひろあき
こういう環境問題を1個置くことで、人間の欲求自体が、我々の若い世代も、さらにその次の世代も変わっていくかもしれないってことですね。
下重幸則
個人の意識が変わる。
言いにくいですが、私、喫煙者なんです。私が学生の頃は、そこら中に灰皿がありました。それが今では、罪人のような扱いを受けるようになりました。被害妄想かもしれないけど、世間に「タバコ=害悪」という価値観が定着してきた。
同じように、炭素生産に繋がる行為も、だんだん罪として意識されていくと考えます。気づけばみんなそういう行為をしなくなっているっていうことですね。最近スーパーマーケットへ行くと、皆さんトレーやペットボトルをリサイクルしていることにびっくりします。個々人が肌身で気候変動の危機を身をもって感じ始めたら、ちょっとずつ意識が変わっていくんじゃないかなと思ってます。
おおき
自律分散化。
4年ぐらい前、LED電球メーカーの営業インターンとして、IoT通信機能を持つ製品を取り扱っていました。今は小さいものでもコンピュータによる自動制御がやりやすくなってきたので、モノが自分の環境を制御をすること——例えば人の場所を検知して、そこにしか照明を当てないなど——が当たり前になる未来像があると思ってます。
脱炭素化社会を目指す上で、そのようにエネルギーを管理していくのは当然。誰かが全部管理するのには限界があるのですが、自律分散的に自動制御されていくことを怖いなって思うところもあります。脱炭素化社会では、自分の気持ちではなく、機械が勝手に制御した最適な環境で過ごすように、矯正されてしまう。エネルギー消費を最適化するための自動制御で、価値観の画一化が起きる可能性もあるんじゃないかなと危惧しています。
おおやま
画一化はもう既に始まってると思うのですが、どう思います?
「CO2を減らさなきゃいけない」それはもう仕方ない。その中で価値観がだんだん画一化していると思います。高度経済成長期はいろんな考え方がありました。上昇志向の強い人もいれば、それに疲れている人もいた。でも今は成長してない時代ですからね。
おおき
脱炭素化社会に向かっていくことは、何を捨てていくかの選択でもあります。高度経済成長期、「環境なんてどうでもいい」と思っていたときはどんなライフスタイルでも生きてこられたから、価値観の対立は起きなかったけれど。
これから何を捨てていくかの選択を迫られる中で、CO2の排出を抑える取り組みに熱心な人と、CO2の排出より便利な暮らしの方が大事という人に分かれるんじゃないかな。そういう価値観の違いの顕在化が生じるかもしれないですね。
それぞれの大喜利の回答をシェアしたところで、ここからは対話へ。2つの問いをベースに、どんな化学反応が起きるのか……?
問1 脱炭素化社会でどんなことが起きているか?(どのような「しあわせ/ふしあわせ」なことが起きるのか?)
「しあわせ」人と人とのつながり方が変わる?
ひろあき
まずは「しあわせ」の方面から整理してみましょう。
しおやま
おおきさんの「自立分散化された」社会と、私の「脱炭素フェミニズム」社会を掛け合わせて考えると、自動制御をされることで、家事を、女性だけじゃなくて男性にも振らせることができると思いました。要はコンピュータで統御することで、ジェンダーの意識はコントロールできる。そうすれば、脱炭素フェミニズムの問題がなくなるんじゃないかなって思いました。
ひろあき
やっぱり「便利」じゃないとこういう話は進んでいかないですね。「生活も便利になってるし炭素も出ないから良いよね」っていう仕組みが待っているといいですね。
下重幸則
「欲望は抑制せずに、炭素も出さない」という技術が今発展しています。僕が子供の頃には、「水素で車を走らせよう」なんて発想はありませんでした。もう何十年かしたら、電力を使わずに照明を使えるような技術が発達していることを期待していますね。
おおき
野菜の運搬とかも輸送コストをかけない方が当然環境にいいので、地産地消なものがどんどん出てきて地域の農家との繋がりができて……みたいな想像をしちゃうんですけど、その辺どうなのか、農業を専門にするおおやまさんに聞いてみたいです。
おおやま
輸出、輸入品はできるだけ国内でまかなおうという動きは徐々に出てくるだろうと思います。既存の流通システムだとロスがあります。
ロスを減らすために、生産者と消費者が直で結びつく。安直な考え方ですけど、大きくはそういう動きが出つつあるんじゃないかなと。
おおき
それは農家さん的には幸せなんですか、不幸せなんですか?
おおやま
幸せだと思いますね。お金の面でマージンを取られない上に、やりがいを見出せるようになる。今までは生産者っていうと、作るだけの、ただの生産者と捉えられがちだった。そうではなく、生産者が消費者と近くなることによって、自分が何の価値を提供できるかを感覚的にわかるようになりますよね。
しおやま
その場合、今までの農協さんの仕事はどうなるんですかね。
おおやま
だいぶ縮小されつつあります。農協の役割を代替できる民間の会社もありますし、新しく農民同士が形成したミニ農協のような組織もあります。
しおやま
農村、農家の社会でも、少しずつ人間関係が変わってくるかもしれないですね。
おおやま
僕は今年実際に農業をやっていたんですが、農家の人間関係も変わりつつあります。農家も個の時代。既存の集落も機能しなくなっているから、自分たちがコミュニティを作ってやっていくスタイルになりつつあります。
ひろあき
コミュニティが小さくなるからこそ生まれる新しい人間関係が、いい方向に働くんじゃないかということですね。 ゆきさんは海外経験をされてますけど、海外では今のような話ができるでしょうか。
「ふしあわせ」格差が起きる?
ゆき
やっぱり戦争と環境とエネルギーは切り離せないところです。自分で生産できる国は、輸入に頼らない地産地消の方が安全保障上は良いんだろうなと思います。電力に関しても食品に関しても。でも、生産能力やエネルギー資源のキャパシティーがない国にとっては、逆にそれが仇となることもあります。大国と途上国の主従関係が深まってしまう側面もあるんです。
ひろあき
コミュニティの縮小や地産地消は、脱炭素化社会からは切り離せないという印象です。
今後はCO2排出の観点から、もしかしたら「1年に移動できる距離は何万km」とかって決められた社会がやってくるかもしれません。僕としては今の便利なものを残しつつ、変わってくれればいいなと思うんですけど。 コミュニティがちっちゃくなった社会は、私たち個人のレベルからすると、暮らしやすい社会でしょうか?
おおき
想像ですけど、飛行機に乗れる人が特権階級化するかも。CO2排出を吸収できる量の絶対的なアッパーバウンド、上限は定まっています。CO2排出量はそれを超えてはいけない。そうすると金持ちしか飛行機乗れなくなるんちゃう?と。
おおやま
それだと、CO2の取り合いになって、あんまり移動できない人たちが動乱を起こすようなことになるかも。
ゆき
単純に価格で言ったら、需要と供給のバランスで供給が少なくなるんだったら、その分価格が上がるはずなので、需要が変わらなければ。国家間でも国内でも格差は広がっていくのかなと思いました。 これからは脱炭素化社会で必要になる技術を持ってる人が、再生可能エネルギーを作ることでお金持ちになるのかなって。その人たちが飛行機とか二酸化炭素を排出するものにアクセスできるというのも矛盾してる気がするんですけどね。
問2 脱炭素化に向けて、「しあわせ」な社会に向けて、または「ふしあわせ」な社会を避けるため自分が何をするか?
必要なのは、技術と、技術との向き合い方
おおき
お金決定論もあるかもしれませんが、例えばみんながCO2、「電気使いたい」「旅行したい」と望むなら、そのために頑張って稼いで結局脱炭素化社会に向かわない未来もあると思う。もっと脱炭素化しようって動きになると、個人の出す炭素使用量にキャップがあって、それを超えると電気代が3倍になるとか、そういう社会とかも可能かなと思って。 ブロックチェーンを利用したビットコインだと、システムを維持するために使ったコンピュータパワーの部分のインセンティブとしてビットコインがもらえる仕組みになっています。それと似たような形で、エコな暮らしをしただけ電気代が安くなるみたいな制御もありえるのかなと思いますね。
ゆき
電力の自由化で、自分の好きな電力会社にお願いできるようになっていますよね。再生可能エネルギーだけで電力を供給する会社を自分で選択できるシステムがあるのですが、良いなと思っています。強制力はないですが、電力会社の選択肢があるだけでも違うと思いました。
今は「脱炭素化した生活がしたい」って思っても難しい現状はありますよね。選択肢がなかったり、高すぎて手が届かなかったり。社会の変化に期待するしかないとも思います。
しおやま
私はインドでフィールドワークをしてるんですけど、インド人的思考だと、絶対「教育」が重要だと言うんですよね。学校で脱炭素化リテラシー(例えば自分でエコな電気を選べるような考え方)を身につけさせるとか。
おおき
確かに、個人の選択や、その選択を後押しするための教育で、脱炭素化社会が達成できるなら、それに越したことはないですよね。ただ、脱炭素社会は自由な選択でどうにかなるレベルの問題じゃないかもしれない。
そこで出てくるのは、「技術で炭素の排出を制御をする」という発想。でも同時に個人の自由とのコンフリクトが発生するのは明らか。技術的にどうにかできたとして、そうして良いのか否かについては迷いがあります。
しおやま
下重さんは、技術が進んでほしいという考えはお持ちですか。
下重幸則
僕はやっぱり、技術の進歩がないと脱炭素はできないと思います。 世界中で起こっている森林減少は、炭素が別の形に変わってるということ。翻って、今「再生可能エネルギー」って言ってますけど、太陽光パネルが寿命を迎えて産業廃棄物になってるというニュースもありますし、風力発電も壊れそうですよね。東日本大震災で標的に上がってますけど、原発の安全性を上げるしかないんじゃないかなあと、思ってます。
僕にできることは、可能性を追求する科学者の提案を根拠もなく否定しないということに繋がりますね。やはり技術の進歩無しに根本的な解決はできないと思ってます。
ひろあき
僕も技術がないとどうしようもないと思います。人間がここまで炭素を出してきたのは、便利な生活を追求してきた技術の積み重ねです。今それを全部なくして、元の不便な生活に戻ることはできませんよね。今の技術を、環境のことも配慮に入れた新たな技術で追い越していかないと、本当の意味で持続可能な社会はやってこない。
脱炭素の実現だけで十分だっけ?
おおやま
脱炭素化社会は目指すべきものであり、目的じゃない。だから、世の中がある程度豊かになることが大事なのであり、「脱炭素脱炭素脱炭素脱炭素」と脱炭素が目的化され過ぎることに問題があるという話でもあるのかも。
おおき
そうですね。脱炭素化だけを目指して他のものを切り捨てていくと、「脱炭素化社会にはなったけど、本当にこの暮らしでよかったんだっけ?」という事態になりかねない。脱炭素以外でも、人間の暮らしには他に満たすべき大事な要素があるということだと思います。
ゆき
私は「脱炭素化社会」を疑ったことがありませんでした。日本での水害の急増や、体感で「去年より温かい気がする」とか、肌身を持って危機感を覚えています。だから、自分のライフスタイルを変えてでも、脱炭素化に貢献できているなら良いと、そのまま受け取っていました。
自分の最適なライフスタイルを取るか、社会善である脱炭素を取るかの「トレードオフ」に収束していく気がします。だとしたら全員が自分の快適さを優先して、結局脱炭素化が進まなくなってしまうかもしれない。
脱炭素を疑う考え方を社会全体が持つべきか否かについては疑問です。 公共財なので、「他の国がやってくれるだろう」という見込みの元で「自分はやらなくていいや」っていうマインドになってしまうことがある。これを国際政治の世界では、「フリーライダー(ただ乗り)問題」と呼んでいます。
「わたし」はこうありたい
おおやま
大事なのは「自ら文化を作っていく」という考え方なんじゃないかな。僕は田舎で古民家で暮らしています。石油ストーブでなく、薪ストーブにしようとか、余っている木を利用しようとか、工夫を取り入れています。「自分の暮らしを自分で作っていこう」というスタンスの中に、脱炭素の考えが入ってるみたいな。
そういう考え方が今のこの国には欠けてるように思います。スタンスを変えることで、脱炭素化社会がワクワク感あるものに変わっていくかも。
小さくなっていくような農村社会と向き合う僕としては、「文化を一緒に作ろうよ」ということを言えるあり方をしたいです。ある程度、物質的にも、精神的にも豊かな文化を。最近の言葉で言うと「都市農村間交流」。その先には脱炭素社会もあると思います。
ゆき
私は広い視野を持った人間になりたいです。自分の行動にどんな結果が伴うのかを考えながら、目の前の結果だけじゃなく、もっと広い意味での結果を見ながら選択できるような人間。願望みたいな感じですけど。
しおやま
おそらく28年後、私は、家庭を持っているし、会社でも働いているだろうと思います。そのときに未来の人たちが、脱炭素化社会に向けて不便さを感じないように、話しあったり、生活を工夫したりできたらいいと思います。脱炭素化フェミニズムを考えながら、生きていきたいです。
まとめ
3時間を超える「超分野大喜利」、今回も白熱した議論が繰り広げられました。
脱炭素化で、どんな社会になる?
そのために、自分には何ができる?
これらの問いに対するアンサーは何か。端的にまとめることはできません。
技術の進歩は必須。でも、技術との向き合い方も再考する必要がある。脱炭素の意識を自然に変革していくために大切なのは、教育?危機感?ワクワク感?脱炭素化だけを追求したライフスタイルにも功罪あり……
脱炭素社会に向けて考えるべきは、その実現方法だけではありません。議論のうねりの中で、脱炭素社会の実現は「地球上で生きる人類にとって大切なものは何か」という根源的な問いと密接に結びついているということが見えてきました。
1つの結論を導き出すことをゴールにしないのが「超分野大喜利」の面白いところです。分野の垣根も超えて、あらゆる角度からざっくばらんにアイディアを出す「大喜利」的な向き合い方こそ、脱炭素社会の実現という困難な課題に対峙するために要求される人類の態度なのかもしれません。
次回レポート予告
第6回 暴走する行政
2022年3月5日に開催された第6回 超分野大喜利 にもMAJIME ZINEが密着。近日公開予定です!
ゆりかごから墓場まで。今や行政の領域は、それ以上に広がっているといっても過言ではありません。
国民が政治家を選び、その政治家が行政を差配する。理論の上では、確かにそうかもしれません。
では、ここまで肥大化した行政を、果たして私たちは本当にコントロールできているのか。
そもそも、良い行政とは何なのか。
京都大学「K.U.RESEARCH」より引用
これまでの「超分野大喜利開催レポート」一覧は こちら からお読みいただけます。
超分野大喜利プロジェクト
異なる分野を専門とする大学院生や若手研究者・社会人が集い、異分野融合的なおもしろい発想を創発させる対話の場「超分野大喜利」を運営している。
毎月話題提供者をお迎えし、普段の研究や仕事の中で考えている問いに対して参加者の専門分野の視点を活かして一緒に考えることで専門分野を“超”えた視点の視点の創造を目指す。
「超分野大喜利」は京都大学分野横断プラットフォーム事業に採択されており、学際融合教育研究推進センターと学術研究支援室の支援のもとで実施されている。
公式サイト:超分野大喜利プロジェクト
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