滅亡するから、生を考える。 / 第2回超分野大喜利開催レポート
大喜利。
投げられたお題を、ひねりを効かせた一言で打ち返す、爽快なあの演芸です。お茶の間でよく見る、お笑い芸人や落語家のとっておきの一言も良いですが、それを様々なフィールドからわらわらと集まった研究者たちが行ったら……?
実現しました。それが、「超分野大喜利」。京都大学の大学院生を中心に運営されている超分野大喜利プロジェクト主催のもと、大学院生、大学院を卒業した若手研究者・社会人が膝を突き合わせて(オンライン)、3時間に及ぶ知的攻防戦を繰り広げました。
お題は、「人類滅亡――滅びゆく宇宙の中で私たちはどう生きるか」。
はじめに剛速球を投げたのは、話題提供者として招かれた宇宙物理学がご専門の磯部洋明先生(京都市立芸術大学美術学部准教授)。
若き研究者たちは、この球をどう打ち返すのか?研究は勿論、それぞれのアイデンティティや思想にまで結びつく、大スケールの大喜利となりました。
今回は、超分野大喜利の第2回目。総勢21人が参加し、4グループに分かれて「お題」について考えました。この記事は、MAJIME ZINEが密着したグループの議論をレポートしたものです。末尾には、第3回超分野大喜利のお題も紹介しています。ぜひ最後までお付き合いください!
まずは、大喜利の火付け役、「お題」をご紹介します。
【お題】「人類滅亡」
磯部洋明先生(京都市立芸術大学美術学部准教授)
天文学を自然科学、社会科学的に考えている。
地球は変動する星であり、一日単位から数億年単位で地球が内的に外的に変動している。
そのなかでも気候変動は人類が懸念している変化の一つである。地球の気温はここ100年で急上昇している。一方で今までのデータから地球上の温度は上昇するはず。だからといって人為起源の気候変動の対策に意味がないというわけではない。
地球の表面は2、3億年のスケールで考えれば大陸は合体と分離を繰り返しているため、文化を残すことはできても、日本列島として残ることは不可能だ。地球の最初の決定的な危機は水は6億年後には地表から消えることである。次に60億年後には太陽系がなくなり、宇宙膨張が進み宇宙の端から裂けると言われている。このように、何をもがこうと人類は必ず死を迎える。
ノストラダムスの大予言が外れたから皆が安心しているかと思いきや、このように絶滅を迎えることに対して、21世紀になって各分野で次々と書籍が出版されている。
学問では絶滅リスクに備えるための研究所が設立されている。ある研究では絶滅リスクとは「グローバルにほぼ全員が死んでしまうリスク」と考えられている。
例えば、天体衝突や巨大火山の噴火といった自然由来のもの、核戦争などの壊滅的な被害をもたらす人工由来のもの、そしてパンデミックや極端気候変動といった自然と人工由来のものに分類できる。何億年単位での危機について述べてきたが、実は我々は何百年単位で人類絶滅のリスクを抱えている。
お題:私たちはなぜ人類を生きながらえさせようとしているのか?
ポイントとなる論点は4つ。
①種の保存は私たちの最優先事項か?
「人類」という全体的な概念であり、個々の人の幸せを無視してまで全体の利益を通すべきなのか。
②何を残せば種を残したことになるのか?
種そのもの?遺伝子?文化?それとも記憶?記憶であるなら、PCデータのような形でも残ったと言えるか?
③誰、どこまで先の子孫に対して責任がある?
確かに未来世代に対する責任はあるが、どれぐらいの年月スパンで考えるべきか。
④私たちはなんのために生き、何を残そうとしているのか?
最後にはすべてが無に帰し、生きていることが善であり正であることは自明ではない世の中で何を残すべきか。
【大喜利】第1ラウンド
磯部先生のお題に対して、参加者の皆さんが一斉に回答を書きました。「惰性」「恐竜に勝ちたいので」……「その心はっ?!」をぶつけたい回答ばかりでしたが、今回は密着したグループの皆さんの回答を、プロフィールと共にご紹介します。他の参加者の皆さんが書いた第1ラウンドの回答は、記事冒頭画像内、黒文字で書かれています。
さつき(進行)回答:「恩送り」
生まれも育ちも京都のネイティブ京都人。大学院では比較教育学を専門とし、インドのジェンダー教育研究をしている。自分とは何者なのかを常日頃考えているが、答えはまだ見えてこなさそう。
きょんち 回答:「生存本能」
12歳でソウルに単身留学、言語学習と言語教育に興味を抱く。大学で物理学と生物学を専攻し、卒業後は中国やメキシコの大学で教鞭を取る。現在、京都大学大学院博士課程に在学し金融工学の研究に励みながら、株で一攫千金を狙っている(?)。
たまお 回答:「本能」
乗馬を始めたのをきっかけに、彼らの高い社会的能力に興味を持つ。学部でのノネコの研究を経て、現在はドローンを使い、ポルトガルの野生化ウマを研究している。小さい頃はヒト以外の動物に生まれたかったと思っていたけど、今はヒトたる自分も結構気に入っている。
たなか(進行) 回答:「なんか、申し訳ないから」
東日本大震災の頃、東北地方で原子力発電所の立地業務に従事。ろくに科学を分かっていないにもかかわらず「科学的に〇〇」という言葉を使って地元の人を説得していたら、原発事故が起きて青ざめる。会社を退職後は研究の道に進み、「科学って何」「市民の声の意味は」「なぜエネルギー政策は変わらないのか」など悶々と考え続けている。
ふみひこ 回答:「本能=自己愛(自己が属する集団と関連)」
企業での炭素繊維の研究開発一筋18年。6才のときにテニスラケットの軽さに感動したことで当時の夢の素材「炭素繊維」にあこがれ、以来マニア。まだまだ掘れば新しく、日々発見の毎日。原子一粒一粒レベルの材料設計と社会との繋がりを勉強中。
【ディスカッション】
第1ラウンドの回答
ふみひこ:強く「生き残らせたい!」と思っているというよりは、そういう価値観や文化っていうのが植え付けられているために、(人類を生き残らせることは)必須だと思ってるんじゃないかな。
本来、本能というのはもっと根源的ものだと思うんですけど。
たまお:私が書いた「本能」は、生物学的です。他の動物にも植物にも、遺伝子を残すために、遺伝子自体に組み込まれてる自己複製の能力。自分の遺伝子を次の世代の子に渡さなければならない「本能」があるから、人間もそうなのかなって。
きょんち:自分はたまおさんとかなり意見が近いです。人類もやっぱり生物なので、「なぜ遺伝子を次の世代に繋げるのか」と言ったら生存本能に刷り込みがあるから。
ただ、今までは人類が生き残るために、「種を残そう」っていう意識だったんですけど、近年は「環境を変えていこう」っていう視点に切り替わってるのではないでしょうか。
さつき:「恩送り」。ふみひこさんと似ていて、「先祖から受け取ったものは、より良くするか、そのまま子孫に受け継がなければならない」と刷り込まれているような気がしたので、ぱっと書きました。
たなか:「なんか申し訳ないから」。さつきさんのに近くてね、「自分の世代で、店閉めたら先祖に申し訳が立たん」「地球環境が今より悪くなっている状態だと、次の世代に顔を見せができん」とか、そういうロジックと近いのかもしれない。世代間倫理的なところがベースにあるのかなという気がします。
たなか:なんか面白い。自然科学系の人(ふみひこ、きょんち、たまお)はみんな本能。人文系(さつき、たなか)は世代間倫理。
本能に「種を残す」は刷り込まれているのか
ふみひこ:「種を残す」って、人間に組み込まれてるんですか。
たまお:そう思われている気がします。
子供が危機を感じたら、泣いて助けを求めて何とか生き残ろうとするのも、誰も教えてないけどするし。
あと、親が子供に愛情を注ぐのも、自分の遺伝子を持つ存在だから残したい、みたいなことは本能なのかな。
きょんち:うん。たぶん生殖能力がある時点で、種の保存が潜在意識に入っていると読み取れると思う。自然科学でも、そういうものだと思います。
だから、遺伝子自体が主人公で、個体っていうのはただの器でしかない。だから、「遺伝子が器から器へ乗り移る」という見方でいくと、「種の保存」が刷り込まれていると考えます。
本能だけで生きてるわけじゃない
ふみひこ:なるほど。
ただ、最近は子供を作らない人もいっぱいいるわけじゃないですか。だから、完全に本能で我々生きてるわけではないですよね、生殖っていうことに対しても。
たなか:それはいいポイントやな。私も最近子供が生まれたんですけど、あんまり将来に希望が持てない中で、本当に子供を産むかみたいな話って結構しました。「子供を産み育てる」って、めちゃくちゃ大変じゃないですか。それを「本能」だけっていうのは、しっくりこない。
ふみひこ:例えば、少子高齢化が悪者かのように言われてるけど、「種を残す」ということは、今の価値観で言えば必ず正とは言えないと思ってます。本能があったとしても、それだけではない。
きょんち:文化的な価値観と本能は、同じレベルにあるものではないと思います。どっちかが根底にあって、どっちかが表面に見えている。その理論でいくと、本能が根底にあって、例えば少子高齢化とかが表面に見えている。本能だけで表現できないものが、表面化するのではないかと思います。
ふみひこ:その考え方には同意。
きょんち:なので、「私たちはなぜ人類を生きながらえさせようとしているのか」という問いに対して直観した答えは、根底の本能がぱっと思い浮かんだ人と、表に見えているところが見えた人と、2つにわかれたっていう感じですかね。2つ挙げましたが、違うように見えて同じようなものだと思いました。
人類に何を残すか
さつき:2つ目の質問(「種?遺伝子?文化?記憶?記憶であるならPCのような形で残した方がいいのか」)に沿って考えると、二項対立以上のものが出てくるんじゃないのかな。どうでしょう。何を残せば人類を残したことになるんでしょうかね。
たまお:承認欲求、つまり、文化や作品を後世に残したいというのもすごくわかるな。どんな生き物でも、そんな承認欲求があるのかな……。
さつき:今、聞いて思ったのは、自分の銅像を残すこと。それは、自分のエゴかもしれない。だけど、もしかしたらアイコンみたいな人作ることで、次の世代が政治的に利用することにも繋がるのではないのかなって思いました。「この人の考えをみんな踏襲しましょうね」とか。
だから政治的な繁栄のために、記憶や歴史を残してたのかなあというふうに思いますね。
きょんち:なるほど。何を残したいのかと言えば「記憶」。何のためにと言えば「次世代の繁栄」。
たなか:でも、人類が滅亡してしまったら、政治的な繁栄も何もない。やっぱり種の保存っていうのはベースにあるっていうことなんですね。
人類のいろいろな生存戦略
きょんち:1個キーワードとして、「生存戦略」が入ってくるなと思います。承認欲求っていうのは、2つありますよね。1つは、自分が生き残るためにコミュニティで役割を得て、自分が生き残る可能性は上げるっていう意味で、もう1つは、繁栄によって自分のコミュニティが生存確率を上げて、結果的に自分の生存確率も上がるような意味。だから、承認欲求は生存戦略がベースにあると考えます。
たなか:あえてちょっとぶっこんでいいですか。
例えばキリスト教はご存知の通り進化論を否定しますよね。そもそも人間は見える範囲でしか説明できない、だから、神の意図はわかりようがないんだという。「人類が生き永らえる」というのは本能かもしれないけど、それすらも神が意図をもってデザインされたもの。それと同時に神は人間に地球をうまく管理する使命も与えている、と考えることもできる。自然科学の立場からは信仰自体も本能が作り出した幻想と説明するのかもしれませんが、どう思いますか。
きょんち:生存戦略の取り方は人それぞれなのかなって感じですかね。
ふみひこ:生存戦略について、きょんちさんは個の生存が、結局人類の生存と繋がってるっていう考え方なんですか。
きょんち:私たちの細胞一つ一つの核に染色体が46本あります。その46本が、似たような生存戦略を持った一つの共同体と考えると、その共同体が人類だと言えます。こう考えると、個々の生存確率を上げるために、全体の生存確率を上げると言えると思いました。
「本能」で納得できるのか?!
たなか:やっぱり自然科学の「本能」って説得力あるなと。
でも、皆さんはそれで納得してるんですか?「何故今自分が生きているか」の答えが「本能」であることに。
さつき:私も納得いかないからモヤモヤしてて。でも答えが出なかったです。
きょんち:人って、説明できないことに対して恐怖を覚えますよね。だから、安心するためにすがってるんじゃないかなと思っています。もやもやするけど、それで恐怖を抜き取れるならいいかな。
たなか:「持続可能性を求めるのは本能」みたいな説明で納得して、例えば今、SDGsの研究のモチベーションになっているんですかね。
きょんち:その通りだと思います。
たまお:私も結局は、滅びるからなんでしょうね。今やってることも、いつか全部消えてなくなる。それでも生きていこうって思えるのは、自分の根底にある遺伝子があるおかげなのかなって。
たなか:僕はそれは耐えれないですね。キリスト教のような信仰に希望を見出すほかないように思います。
たまお:私も、科学とか本能とか、そういう理論にすがってる。
多分それは、神様を信じるっていうことと根本的には変わらないのかなと思うところもあって。
ふみひこ: 「種の保存」だけが目的だったら、単に子供を産めば済むのかもしれない。だけど、そうではない状況にいて、多面的にもちょっと考えて行動しておかないと、その急激な変化に人類が耐えられんないんじゃないかな。
きょんち:非常にしっくりきます。本能と環境的要因で葛藤しながら生きてる人が多いというふうに思いますね。
多分、環境的な要因が大きすぎることによって、自殺者がいる。だけど、本能が勝っていたら、そうはなりませんよね。
本能で「死ぬ」動物たち
さつき:積極的に死のうとしている生物っているんですかね。
たまお:集団自殺ってありますけど、意思を持って死にに行くみたいな説はあまりなかったり。
あと、チンパンジーの研究者の方が言ってたんですけど、チンパンジーの男性が木から落ちて下半身不随になってしまった。でも、それでも絶望しないみたいです。その一方でヒトは絶望はしますが、遠い未来を見て生きていくことができるから希望も持てます。
きょんち:生物専門用語ですけど、アポトーシスっていう言葉があるんです。「全体のための個人死」っていうような意味ですね。がん細胞を増やさないために、古くなった細胞が自ら死んでがんに新しい細胞を増やす。
たまお:あと確かにハサミムシとかで、自分の子供に自ら食わせるとか。
人類滅亡への恐怖
たなか:最初、ふみひこさんも「本能」って答えられていたと思うんですが、お話をお聞きしていると、本能で人間の行動が規定されていると考えているわけではないように思います。どのような意味で本能と仰ったんですかね。
ふみひこ:結局、自分が属している集団を大切にしなければ自分が生きていけない。それで、後天的に植え付けられたものではないのかなと思ったので、「本能」と表現したということなんですけど。
さつき:それ思いました。私は、多分その言葉を、アイデンティティが失われることへの恐怖なのかなって思います。ある集団から抜けた自分っていうのは自分ではなくなるみたいな。
生き延びたいから
たなか:今まで結構、持続可能性とかいう話しても煙たがる人が多かったじゃないすか。もし人間が持続可能な社会を求める生き物だとしたら、それってどうやって生存本能で説明できるんですかね。「持続可能じゃなくてもいいやん!今楽しければいいやん!」って人たちって結構いるような気がするんすけど。
きょんち:生存手段の一つとして、「持続可能ではない」行動を取るという判断をした人たちではないでしょうか。
種を残すために、いろんな生存戦略を取ると思いますが、その戦略の一つとして「持続可能性」を選ばなかったっていうだけ。
たなか:では、やはりその選択には人の意思が入っているんですね。
きょんち:そうですね。それがいわゆる環境的な要因なのかなって。
ヨーロッパでは、「持続可能」という選択肢を取る人たちが多いけど、他の地域を見たらそうではないかもしれない。性別や時代によっても当然変わってきます。
たなか:きょんちさんの考えでは、それでもその根底にあるのは、やっぱり生き延びたいということ。あるいは、種の保存なんですね。
ふみひこ:個人の考え方と、人類の考え方は、やはりすごく幅がありますね。今話しててもこんなに幅があるのに、「人類だから生き延びようとしてる」って平均化しちゃうのはすごく難しい。
だから、生存戦略の幅って、わかる気がします。
【大喜利】第2ラウンド
最終回答
1時間のディスカッションを経て、参加者のみなさんは回答を書く筆を再び走らせます。果たして、それぞれが導いた答えとは・・・?
さつき 回答:「恩送り」→「細胞レベルの本能」
きょんち 回答「生存本能」→「生存本能」
たまお 回答:「本能」→「本能」
たなか 回答:「なんか申し訳ないから」→無回答
ふみひこ 回答:「本能=自己愛(自己が属する集団と関連)」→「先送り」
メンバー5人中3人が自然科学系の学問を専門としている中、「本能」という言葉を鍵として議論が進みました。中でも、人文系のさつきさんの意見が「受け継いだものをなるべくそのまま引き渡さねば顔が立たない」という世代間倫理による考え方から「本能」に変わっているなど、ディスカッションの影響が窺える回答となっています。
しかし、ひとくちに本能と言っても、人間の行動の全てがDNAに刻まれた衝動によって起こっているとは言い切れないのが悩みどころでした。
事典と辞典でも語釈が大きく異なりそうな「本能」という言葉ですが、分野外の人と話すことによって同じ言葉への分野外からの視線を知ることができる、「これぞ超分野大喜利!」という結果となりました。
他の参加者の回答
グループディスカッションを終えた全体での最終大喜利では、MAJIME ZINEが密着したグループ2の方々の他にも、どのような議論を経た答えなのかが気になる面白い回答がたくさん見られました。そのうちのいくつかをご紹介します。
参加者Kさん 回答:「人類への愛」
「人間が今まで培ってきた失われると考えるとやはり悲しい。人間は結局自分=人類が可愛いので、人類の人類に対する愛は滅亡に反抗する要因になるのでは」
参加者Yさん 回答:「素敵な勘違い」
「人類にそもそも残す価値はあるのか。生存本能がそもそも先にあって、それを思考能力で補って理由付けしている。自分たちには生き残る価値があるという思い込み、素敵な勘違いをしている」
参加者Kさん 回答:「生の刷り込み」
「そもそも生きることが当たり前というのが社会的な刷り込み。漠然とした危機に対しても生き残らなければいけないという思い込みがあって、それが人類滅亡という局面にも適用される」
磯部先生からも、「価値は存在する、しないではなく見出すもの」であり、「(価値が)人間にはあるが、人類にはない。人類を生きながらえさせることは、今生きている人間を蔑ろにしてまで最優先とは思えない」という意見が出ました。
まとめ
自分たち人類の「滅亡」についての意見を交わし合うことは、「じゃあ人類が生きる意味はなんだ?」という問いを生みます。
でも、それぞれの専門分野で培った知識から整理して答えをまっすぐ導こうとすると、人間は本能だけでは片付けられないし、あまりにも個々で思想が違いすぎるという障害に阻まれたり、愛ってそもそもなんなのか?というあまりに掴みどころのない問いが生まれたり。約3時間のセッションでは到底全容は見えません。
おそらくさらに長い時間をかけて語り合っても「これだ!」という答えが出る話題ではないでしょう。
でも、分野を超えた研究者たちが知見を交わし合うことで人間を人間たらしめるものが何なのか、ひいては自分とはなんたるかを思考するための足掛かりになったのではないでしょうか。
私たちは、なぜ人類を生きながらえさせようとしているのか?
みなさんも考えてみてはいかがでしょうか。
第3回超分野大喜利「死のフィクションを解体する」
さて、ここまでMAJIME ZINEが密着した超分野大喜利ですが、11月28日(日)に第3回が開催されます。
お題は「死のフィクションを解体する」。
人間にとって絶対的でありながら、不可知の領域である「死」。
京都大学東南アジア地域研究研究所研究員 松岡佐知さんによる話題提供のもと、それぞれの専門分野の視点から解釈したフィクション的「死」を通して、死を意味付ける行為の意味を考えます。
概要および参加登録はこちらのリンクから↓
第3回超分野大喜利「死のフィクションを解体する」参加登録フォーム
超分野大喜利プロジェクト
異なる分野を専門とする大学院生や若手研究者・社会人が集い、異分野融合的なおもしろい発想を創発させる対話の場「超分野大喜利」を運営している。
毎月話題提供者をお迎えし、普段の研究や仕事の中で考えている問いに対して参加者の専門分野の視点を活かして一緒に考えることで専門分野を”超”えた視点の視点の創造を目指す。
超分野大喜利は京都大学分野横断プラットフォーム事業に採択されているおり、学際融合教育研究推進センターと学術研究支援室の支援のもとで実施されている。
編集部ナカノ&ユキノ