no title#5 「個人的なことになるんですけど……」への一考察。

no title#5 「個人的なことになるんですけど……」への一考察。

お久しぶりです。MAJIME ZINE編集長のナカノです。no titleを書くのは5か月ぶり。たくさんの方からのラブコールを受けて……というわけではないのですが、書きたくなったので筆を執りました。

no titleは、コンセプトを持った企画に属さない、雑多な記事たちを拾い集める場所として、私がお願いして設けてもらった括りです。ひと月に1本書こうと思って、4月、5月、6月とスイスイ順調に書いていました。が、7月に進めなかった。

原因は明らかで、それが今回の異端児タイトルでもあります。

そうです。「個人的なことになるんですけど……」が気になってしょうがなくなってしまった。

この一文に、目をぱちくりさせた方と、頭を縦にぶんぶん振っておられる方と、どちらが多いのでしょうか。おそらく前者でしょう。言葉を補えば、「個人的なことになるんですけど……」(長いので以下「こじけど」)から話し始めるもしくは書き始めるということは、少なからず「個人的なこと」の提示を申し訳ないと思っているということ。それならば、提示しなければいいじゃない?と思ってしまうのです。

私も「こじけど」ヘビーユーザーで、同申し訳なさも常に感じていました。「個人的なことを話すことで、相手に共感を迫ってしまうのではないか?」「個人的なことを書いたって、誰が面白いのか?」と。この「?」に筆を執ろうとする手をぎりぎりと掴まれ、なかなか自分の脳内だけで構成するno titleに漕ぎつけなかったというわけなのです。

今回は、その「こじけど」の呪いから、自分を解放してあげるために書きます。

そもそも、「個人的なこと」とは何でしょうか。これまで私がno titleで取り上げたのは、自分の友だち、自分の身体との関係性、自分にとっての「キュンです」と多様性。読み返すと、その時々の自分の思考をなぞるようで何だかくすぐったいけれど、それと同時に、現在の自分と自動的に相対化して、今の自分をなぞっているような感覚もあります。この感覚は、他の人のエッセイを読んでいるときも然り。書き手と自分が、歪なDNAの螺旋構造のように、交わったり離れたりしながら進んでいく感覚です。ただ、他の人が書き手の場合は、自分をなぞるときのようにぴったりと寄り添うことはほとんどないと思います。

このように「個人的なこと」を書くことで、今と他の時間をたゆたうかのような感覚を無意識的に生み出すことができるのは、「個人的なこと」が存在する理由になり得るかもしれません。

それでは、「個人的なこと」とは何かをあぶり出すために、対立する「客観的なこと」とは何かについて考えてみたいと思います。

私は大学で美術史を専攻しています。例えば、1つの絵画について客観的な事実を記述するとき、くちすっっっぱく言われるのは、どこからが自分の言葉でどこからが「客観的なこと」なのか、区別することです。絵画に描かれているのは誰なのか。絵画が描かれたのはいつなのか。情報を詰め込んだ頭の中から、秋刀魚の小骨を箸先でつまみ出すように、丁寧に書き分けていきます(ちなみに私は基本的に、実際に秋刀魚をいただくときは骨までぼりぼりと食べます)。

1つのレポートでは1つのことを主張するのが基本ですが、その自分の言いたい1つのことを強固に主張するためには、「客観的なこと」が必要なのです。簡単に言えば、自分以外の誰かによってきちんと裏付けられた情報は、自分の主張に加勢してくれる味方です。仲間を増やし、自分の主張をより説得力のあるものにすることが、「客観的なこと」の機能でしょう。

また、「客観的なこと」は、誰が見ても同じであることが肝要です。そのためには、わかりやすく説明される必要があります。「わかりやすく」とは、「端的に」とか、「簡単に」といった意味ではありません。例えば、「客観的なこと」の内容が三角形だとしたら、その辺の長さと角度がぴったりと一致する言葉が当てはめられるべきだということです。

まとめると、「客観的なこと」の要点は、説得力のある主張のために加勢してくれることと、内容と説明される言葉がぴったりと一致することだと考えられます。

それでは、反対側の、「個人的なこと」と比較してみましょう。

「個人的なこと」は、説得力のある主張のために加勢するどころか、水を差しますね。例えば、中学生の息子が進みたい高校をお母さんに説明するとします。「この高校は、こんなに実績があって、こんなに高度なプログラムがあって……」と「客観的なこと」を積み上げても、最後に「○○ちゃんも行くし……」と意中の彼女の名前を口にした暁には、息子くんの堅牢なはずだった城も砂の城と化します。

ただ、「個人的なこと」は、必ずしもわかりやすく説明され得るでしょうか?私は、否、だと思います。むしろ、「個人的なこと」の内容の三角形に、1辺でもぴったりと当てはまる言葉が見つかれば、万々歳、という程度ではないでしょうか。

「個人的なこと」は、誰かを説得することには使えないけれど、自分に最も正直な形ではありますよね。それはそうです、自分産なのだから。その形は簡単に他の人へ伝えることができないけれど、その分おおらかに、言葉への変換を行うことができます。100の内容のうち、1伝われば、万々歳。

なんだか「個人的なこと」はそんなに悪い奴ではない気がしてきました。

「『個人的なこと』を書くことで、今と他の時間をたゆたうかのような感覚を無意識的に生み出すことができるのは、『個人的なこと』が存在する理由になり得るかもしれません。」

「『個人的なこと』は、誰かを説得することには使えないけれど、自分に最も正直な形ではありますよね。……100の内容のうち、1伝われば、万々歳。」

前述の通り、6月を境に「個人的なこと」を話したり、書いたりすることの、目的を探って手が止まっていました。しかし、そもそも「個人的なこと」が実在の1/100であっても存在する理由があるとしたら、現在の自分を位置づけることと、他の時間の誰かが自分の思考をなぞるためなのではないでしょうか。

思考の徒然なるままに書いてきましたが、脳みその外側から、こんな声も聞こえていました。

「結局、私が主体として話す/書くことはすべて『個人的なこと』なのではないだろうか。」

そうかも。

「個人的なこと」しか話せない、書けない、と考えると、いっそ話す/書くのが楽になりそうです。

自分の思考が100あったら、1伝われば万々歳。あとは、いつかの誰かの役に立つ。

微かな光が見えたので、止めたらまた動けなるかもしれない筆を、恐々一旦止めてみます。なんとなく、「こじけど」もいいもんだと思えたから。

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中野多恵

編集長。大学院生。芸術コミュニケーション専攻。

好きな言葉:「手考足思」(河井寛次郎)

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