「死のフィクション」と向き合ってみる。 / 第3回超分野大喜利開催レポート

「死のフィクション」と向き合ってみる。 / 第3回超分野大喜利開催レポート

大喜利。

投げられたお題を、ひねりを効かせた一言で打ち返す、爽快なあの演芸。一般的には、落語家の方々によって繰り広げられる毎週日曜放送のあの番組が思い起こされるでしょうか。最近では「大喜利AI」というサービスもあるとか。

——— そんな大喜利を、多種多様な専門領域に属する研究者たちが集まっておこなってみたら…!?

ということで、お待たせしました。

「超分野大喜利」。京都大学の大学院生を中心に運営されている超分野大喜利プロジェクト主催のもと、大学院生、大学院を卒業した若手研究者・社会人が1つのお題に対して各々の考えを繰り広げ合いました。

お題は、「死のフィクションを解体する」。

今回の話題提供者は、医療の現場でも活動され、医療人類学などをご専門とする松岡佐知さん(京都大学東南アジア地域研究所研究員)です。

「死のフィクション」。そう聞いてもほとんどの方は頭に「?」を浮かべるかもしれません。前回の議論を超えてさらに専門域まで踏み込んだお題に、編集部一同も今回はどんな議論が展開されるのだろう…と。

そんなお題に多面的な方向から意見を交えたのは総勢14名の参加者たち。MAJIME ZINE はその中の1グループに密着し、議論をレポートしました。

「死」について——— 日常的にはあまり考えないことでしょうか。けれども一度立ち止まって考えてみると、思ってもみない回答が自分の中で湧き上がってくるかも?

参加者のみなさんと一緒に対話をするような感覚で読んでみてください。

まずは、「お題」のご紹介です。

【お題】「死のフィクションを解体する」

京都大学東南アジア地域研究研究所研究員 松岡佐知さん

「フィクション」とは何か。

人間が世界の事象を主観的・間主観的に解釈した結果である。あらゆる感覚刺激は、無意識的な推論によって、それと認知され「フィクション」となる。科学的客観性は、人間に限定されない諸存在を含めたネットワークに依存していて、流動的で暫定的である。「自分は意味(ロゴス)を求める存在であり、その意味発見を援助することが治療となる」ように、人は事象に対し意味を紡いでおり、それが生きる意味となる。まとめると、人間はこの世界を推論的に認知している。科学的「事実」と認定されていることも多様な要因に依っていて揺らいでいる。それでも、人間は意味(フィクション)を拠り所として紡ぐ存在なのである。

インドでは、輪廻と解脱という「フィクション」がある。輪廻は、見送る者、死にゆく者にとって、その恐怖や寂しさを塗り替える対症療法的な意味が、あったのではないだろうか。一方で、解脱はロゴス、苦しみをもたらす生死の観念、フィクションを手放すという原因療法的な意味があったのではないか。

このフィクションの成り立ちを想像すると、輪廻は自然科学が説明する摂理に符合するように思う。分子論的に考えれば、肉体が朽ちてもその構成要素である炭素は残存し、生態系の循環で森羅万象に形を変える、輪廻はその言い換えとも読める。古え人は、観察・体験的に自然の摂理を理解していて、それに物語(フィクション)を付与することでその恐怖を飼い慣らそうとした。そして、それは100%有効ではないので、解脱という考えがあるのかもしれない。

現代インドでは「フィクション」から構築された儀礼が機能しなくなっている例がある。ゾロアスター教では、死者は火でも土でもなく、鳥に葬られる。インドの一部の地域では、その鳥葬を担ってきたハゲワシが絶滅危惧種となり、遺体がそのまま残存、腐臭が社会問題となっている。多様な要因に依る死を意味づけるフィクションは科学的「事実」と同様に更新されていく。

【大喜利】第1ラウンド

問い:私たちはなぜ死のフィクションを作るのか?

ばみ(進行) 回答「よりよく生きるため」

大学で心理学を専攻している心理学オタク。来年度からは大学院で、教育や産業分野への心理学の応用の研究をしようとしている。「人とは何か」について生物的・歴史的・社会的側面から考えるのが好き。

はな 回答「無回答」

修士課程までは人文系の歴史学の学生。現在は社会人博士学生として工学系で歴史研究を試みている。「みんなで歴史を紡ぐこと」実践しながら考え中。過去と現在、たまに未来を思いながら日々悶々としている。

かず 回答:「死を受け入れるハードルを下げるため」

医学研究科の医師15年目でもある大学院生。代替医療、統合医療の現代医療の中での有用性を証明できたらなーと考えている。まだまだ出口は見えないものの、多方面からのアプローチで何か見えてこないかと奔走中。

あんり(進行) 回答:「原点にして頂点の”アバター形成”」

沖縄育ちのてーげー(適当)人間。学部では、国際関係学を専攻。大学院では視野を広げて経済学の観点からサイバーセキュリティについて研究したい。困難に直面すれば、なんくるないさー精神で乗り切ろうとするらしい。

おおき 回答:「死の恐怖と向き合うため」

ネットワーク科学を用いて、ひとやものの複雑なつながりを研究している。学部時代は工学部に所属しながら、休学して台湾のLED電球メーカーで営業をしたり、市役所でインターンをしたりと、迷走を繰り返す中で出会ったネットワーク科学を学ぶために大学院にやってきた。

【ディスカッション】

第一ラウンドの回答

ばみ:私にとって、死のフィクションは、死を自分なりに意味付けて解釈することで、未知のものである死に飲み込まれずによりよく生きていくためにあるんじゃないかと思います。かつ、自分が死んだ後にそのフィクションが適用されると考えて、備えながら生きるためでもあります。

おおき:僕は10年ほど前に祖母を亡くした時、初めて身近な人の死を体験しました。僕には「人が死んでいく」こと自体を「怖い」と感じる意識があります。自分自身が死を迎えることも当然怖い。恐怖の対象に自分でストーリーをつけていくことで、人は「死」という恐怖と向き合ってきたのかなと思いました。

あんり:私は、死後の世界における自分の姿(=アバター)を想像することが死のフィクションだと捉えたんです。アバター形成っていうのは、「自分が死んだら天国に行くんだ」というふうに自分の死後を想像することかなと思いました。サイバー空間に自分とは全く違うもう1人の自分を作成するみたいなことが、すでに現実世界においても当たり前になりつつありますね。

かず:僕は、死を受け入れるハードルを下げるためのフィクションだと思っています。僕自身、医師として人の死には何度か立ち会ってきました。インドで人の死に際に立ち会った時に「あなたはラッキーだ」と言われたという話が(お題提供の)松岡さんからありましたが、そのような価値観を持つ文化の人にとっての死と、僕たちが考えている悲しくて辛い死は、全く別物ですよね。

あんり:はなさんが、死のフィクションって聞いて最初にぱっと思いつくワードは何ですか。

はな:「死と向き合おうとする姿勢」です。私はボトムアップの歴史を勉強していて、歴史を紡いでいくことを目的にしている方々と一緒に活動しています。その中で、歴史には、死に向かっていくことを自覚して物語を編み、整理していくという側面があると感じています。

死のフィクションは人それぞれ

はな:いろいろな国とか宗教の人とお話をして、何かを信じていることが生きることへのモチベーションに影響していると感じました。生きるときに大切にしたいものが、死後の話と繋がる部分があるとすれば、人への想いを大切にするという意味でも死のフィクションがあるといえるんじゃないでしょうか。「死」という前提があるから他者を思いやれる。

おおき:素敵な考えですね。僕自身としては、そもそも死のフィクションが必要かどうかというより、むしろフィクションがない状態がいまいち想像がつかないのが正直なところですね。例えば、人間は低エントロピー状態を維持してるんですけど、そのエントロピーが高くなった状態が「熱力学的な死」なんです。僕はそれすらフィクションだと思うんですよ。人間は死という現象を「エントロピーが極大になったという認識をする」っていうフィクションだと思ったんです。

あんり:なるほど、物理学で示されていることも実はフィクションなんじゃないかっていうことですね。

かず:僕が思うには、そもそも自分の中のフィクションという定義そのものに偏りがあったなと。おおきさんがおっしゃったように、僕らの信じてる科学もフィクションだと捉えられますよね。

おおき:僕もそこが気になります。必要のあるなしに関わらず、そもそも「死のノンフィクション」ってなんだろう。

かず:やっぱり「死のノンフィクション」という確固たる定義が無い限りは、死を目の前にして感じる感情や各々考えてることがフィクションだと思います。だから、それを語ることがフィクションになって、それが癒しになっていくのかもしれませんし。死に面したその時に目に見えた事実や、死の瞬間を映した写真や動画以外は全てフィクションですよね。

社会における死

ばみ:私たちの中には、家の宗教や親の考え方によって、生まれたときから死のフィクションが決められた社会にいる方もいますよね。この理由で死後の世界ってこういうものなんだと生まれた時から1つのことを信じている方と、育った環境に依らず、自分の中で死を解釈していった方、この2パターンがあると思いました。私は後者ですが、死のフィクションを考えていく中で、「自分はどのような死のフィクションを作るか」という問いがあります。今の時点で自分自身で作った死のフィクションがある方はいますか?

おおき:僕は物理学を勉強しているので、「原子として、あるいは分子として自分が分解されていく」っていうのが僕の死に対する捉え方なんです。エントロピーが高くなって身体が「死」の状態を迎えたら、その後は原子・分子に分解されて、また何か物の一部になる、っていうのは物理学的に考えればすごく自然だなと思います。

かず:それこそ輪廻転生ですよね。僕は瞑想するんですけど、その時に蚊が飛んでくることがあるんです。でも瞑想してる時には絶対殺したらだめだし、そもそもなんで血なんか吸うんだって考えるんです。その蚊が吸う血の一滴にも自分の遺伝子が入っていて、それが蚊の生命になっていく。そう考えると、蚊に血を吸われることは実は自分の遺伝子を外に繋げていっていることだと言い換えられます。そういう説明を科学的にできれば、物理学的な死の捉え方が人に受け入れられていくんじゃないかと思いました。

ばみ:私は怪奇現象や心霊現象に興味があります。人が死んだ後にどうなるかの解釈の一つだし、死後の世界だったり、はどうしても知りえない世界じゃないですか。怪談って言っても、人を怖がらせる怪談とはまた別に、自分の両親が死後に姿を出てきてくれたとかいう話が存在します。それは、死んでしまった人だけれども会いたいっていう気持ちがフィクションになっているからかと。日本だけでなく、世界中で話されているという普遍性もあります。

皆さんは幽霊や怪奇現象をどう考えますか。

はな:私としては、歴史を研究しているときに、「これはありえないだろ」っていう話を、「物語としての歴史」なのか、それとも「事実として認めていくべき歴史」なのか判断する時に、どう受け入れるか悩みますね。怪奇現象や死後の世界の存在が前提で進んでいく行事もありますよね。物質としての死もある一方で、魂は生き続けてるんじゃないか、という話も有り得るかもしれないと思います。

ばみ:もはやその幽霊とか死後の世界が本当にあるのかどうかは問題ではなくて、死後の世界がある上での文化が出来上がっているっていうところ。それこそが人がその死のフィクションを求めてきた根拠になり得るんじゃないかな。

死のフィクションが暴かれる時

おおき:今まで文化として、死のフィクションを置くことそのものが必要とされていた側面もあると思います。結局物質に還元されいくっていうふうに死のフィクションが移り変わっていったら、今まで大事にされてた価値観やそれによって守られた社会秩序が崩れちゃう、というようなことがあるんじゃないかと思ったのですが。

ばみ:社会秩序を保つ死のフィクションの例としては、古代エジプトの「死者の書」が有名だと思います。「人が死んだらどうなるか」が丁寧に説明されているので、まさしく死のフィクションそのものと言えますね。古代エジプトでは死者の復活が信じられていて、生前悪いことをしたら復活できなくなる、というように死を一種の脅しとしていて、そうすることで秩序を維持していた側面もあるのではないでしょうか?

かず:道徳的な、社会を維持させるための死のフィクションって役割非常に大きかっただろうなと思うんです。科学や文明が発展してきて、死のフィクションとして共通に設定されてきたことが、「それって結局社会を成り立たせるだけのためのことなのか」とばれてしまうと、今度は信じない人が出てくるんですよね。例えば、輪廻転生は昔本当に信じられていたと思うけど、「そんなことはありえない」と誰かが言い出す。すると何が合っているのかもわからなくなる。

あんり:人間社会はそれの繰り返しだと思います。自分が信じていたもの、自分勝手に社会が信じていた何かが何らかのきっかけで暴かれ、それが違ったと分かる。それをまた検討する。死生観や死のフィクションに関する考え方においても、暴かれることはあると思います。だからこそ、死のフィクションは社会の秩序形成としての役割を今後もずっと担っていくんじゃないかと感じました。

私達が事実だと思っているものがフィクションで維持されているというのは、危うくて脆いものです。しかし、それが人間社会。今の社会においては(死のフィクションがフィクションだと)バレてしまうことはリスクかもしれないけれど、それがまた新しい社会の形成に繋がるんじゃないかなと思いました。

人間はどこまで「生きている」?

おおき:これからIT技術が発達してきて、何らかのデバイスに人間の意識をそのまま移せるんじゃないかという話もありますよね。そうなってくると、今まで死のフィクションや「死」は変わらないままで、死をどう捉えるかっていうことのフィクションが、ドライな考え方からまた揺り戻しがくるんじゃないかという話がありましたが、「死ねば物質に変わるんでしょ」っていう、自然科学的な死生観が成り立たないようになる気がします。

ばみ:今までは肉体が死んでしまったら、それと同時に死が訪れて、その死をどう捉えるかっていうフィクションが生まれていました。ですが、身体にコンピューターなどの技術を取り込んで死を遠ざけることができるようになると、どこからを死とするのかが曖昧になりますよね。自分の肉体が死んでしまったら死なのか。それとも肉体だけ生きながらえさせることができたとして、記憶がなくなったら死なのか。その定義が難しくなっていくところだと思います。定義が変われば、それに対するフィクションも一緒に変わっていくはずです。

あんり:今の話でおおきさんがおっしゃったのは、仮想的に記憶を移すということですよね。私は、そういう世界になればなるほど、健康な肉体を持ってること至上主義、みたいな考え方が生まれるんじゃないかなと思うんです。生物学的には必ず死が来るので、「記憶はあるんだけれども体は死んでいる」っていう状態について、かずさんはどういうふうに捉えてらっしゃいますか。

かず:今のあんりさんの発言がガツンと来ました。確かに、この議論は医療の領域でも実際にされているんです。僕が、体の健康が人の生を定義づけると考えるのは、やはり人間の考えることは健康状態から来るからです。体調が悪いときにはネガティブな考えが出てくるし、純粋な自分の考えっていうのは体の調子がいい時に出てきますよね。健康な精神は健康な身体に宿るっていう考え方に戻っていくのは非常に面白い考えだなと思いました。

【大喜利】第2ラウンド

問い:私たちはなぜ死のフィクションを作るのか?

最終回答

あんり 回答:「原点にして頂点のアバター形成」→「仮想の自分との対話による目的発見」

おおき 回答:「死の恐怖と向き合うため」→「情報エントロピーが低い状態を維持するため」

ばみ 回答:「よりよく生きるため」→「未知の解明(死のフィクションなど無い?)」

かず 回答:「死を受け入れるハードルを下げるため」→「生きている以上、何らかのフィクションを作ってしまう」

はな 回答:「無回答」→「私物語の編纂-生きる意味の材料探し-」

方向性の違う分野を専門とするみなさんが集まっても絶対に知り得ない「死」という領域に踏み込んで話し合ったことで、さまざまな側面から死を次々に見ていくテンポの良い対話となりました。

それぞれの最終回答からわかるように、自らの第1回答から深まった方が多いように見受けられます。個人的な経験をもとにした答えから、最終的に専門分野とのつながりを見出す方、他の参加者の何気ない一言からインスピレーションを得た方。フィクションそのものに疑問を抱く方も現れました。

【まとめ】

「死」は、誰にとっても避けられない人生の一大イベントでありながら、誰も知らない領域です。物理学、医学、歴史学などの学問の中にもそれぞれに死についての理論がありますが、実際の死に直面してこそ得られる死との向き合い方もあります。

各人の「知識として知っている死」と「経験として知っている死」がせめぎ合い、ぼんやりとした死の輪郭は捉えられないままです。しかし、絶対的な終わりを意識してこそ生きている今への新しい疑問が生まれるのではないでしょうか。

その未知性により、古くから多くの人の恐怖の対象となってきた死。その謎を補完するために生まれた物語も数知れずあります。

みなさんが信じる死のフィクションはどのようなものでしょうか。なぜそれを信じるのでしょうか。

是非一度、じっくり解体してみては?

第5回超分野大喜利「2050年脱炭素社会に向けて、暮らしを劇的に変えられるか?」

第5回となった超分野大喜利が、2022年2月13日に開催されます。

お題は「2050年脱炭素社会に向けて、暮らしを劇的に変えられるか?」。

「2050年」と聞くと遠い未来に思えますが、実は1990年よりも近いのです。世界各国で、28年後に迫る2050年までに化石資源に頼らない社会を目指す政策やスローガンが打ち出されていますが、実際に実現するには、私たちの暮らしや社会のあり様を劇的に変えなければなりません。ではどうすれば実現できるのか?環境問題を出発点として、社会構造、政治、経済、教育、心理など、様々な分野の視点から考えていきます。

概要および参加登録はこちらのリンクよりどうぞ!↓

第5回超分野大喜利 「2050年脱炭素社会に向けて、暮らしを劇的に変えられるか?」

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超分野大喜利プロジェクト

異なる分野を専門とする大学院生や若手研究者・社会人が集い、異分野融合的なおもしろい発想を創発させる対話の場「超分野大喜利」を運営している。

毎月話題提供者をお迎えし、普段の研究や仕事の中で考えている問いに対して参加者の専門分野の視点を活かして一緒に考えることで専門分野を“超”えた視点の視点の創造を目指す。

「超分野大喜利」は京都大学分野横断プラットフォーム事業に採択されており、学際融合教育研究推進センターと学術研究支援室の支援のもとで実施されている。

公式サイト:超分野大喜利プロジェクト
公式Twitter:@choubunya

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