「路上の空論」/偏愛道vol.1 路上観察

「路上の空論」/偏愛道vol.1 路上観察

世の中には、暮らしの中で思わず通り過ぎてしまうような“ときめき”に出会い愛する人たちがいます。その“ときめき”を、マジメに向き合ってしまう楽しさを、出会いを、想いを知りたい。「偏愛道」は、そんな企画です。

第一弾の今回は、「路上観察」を偏愛する、路上の目さんによる寄稿です。

「路上観察」とは、文字通り路上を観察することである。

ググってみると、「路上」とは道の上や道端を意味し、「観察」とは、物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること、とある。つまり、「路上観察」とは、道端にある物事の状態や変化を注意深く見ること、ということになる。 それを趣味でやるなんて何が楽しいのか、道端にあるものなんて、何もおかしいものなんてないじゃないか、とお思いのあなたは観察力が足りていません。楽しいと思うかどうかは個人の趣味の問題ですが、路上は思った以上におかしなものに満ち溢れています。インスタグラムやSNSで少し探してみるだけで、路上観察の中にもジャンル分けが存在することがわかります。例えば、路上で管理されているのかいないのか、ギリギリどっちかわからない植物たちを観察する「路上園芸」。(写真1)

写真1
(写真1)ポールと共鳴している。

例えば、新しく建設されたピカピカのビルにはまず見つけられないだろう、錆びたり傾いたりした味のあるフォントの看板たち。(写真2)

写真2
(写真2)濁点がなびく髪の毛のよう(左)。有無を言わさぬかっこよさ(右)。

そして、これなんてどうでしょう。一見するとまあ普通の建物だけれど、よく見ると2階くらいの高さのところに絶対に使われていないであろうドアがある。開けたらすぐ外は空中につながっているとは知らずに、軽快に足を踏み出してしまったらひとたまりもありませんね。これを高所ドアと言います。(写真3)

写真3
(写真3)れっきとした高所ドア。

次、これもよく見ると、かつて存在していたであろう窓と出入り口が塗り固められて、庇だけが 残っています。せっかく窓や出入り口をきれいに塗り固めたのだから、庇も取り外せばいいの に、横着だなあ。なんて思ってしまう物件を、「ヒサシ」または「ヌリカベ」などと呼びます。(写真4)

写真4
(写真4)見事なヌリカベ。ほとんど現代芸術です。

三つ目、これはある駐車場にあった壁です。昔は全体がブロック塀だったのだろう。現在は一部分だけが残され、他はモルタルかセメントの壁に作り替えられている。でもなぜ残したのだろう。きれいにこの壁に合わせて壁を作るくらいなら、ブロック塀を全て壊して作り直せばよかったのに。しかもブロック塀は新しい壁よりも脆いから、ご丁寧にガードレールまでつけられている。これは横着というよりも変です。これは無用壁としておきましょう。(写真5)

写真5
(写真5)無用壁と名付けました。ここだけ残すのは逆に難しいだろう。

上に挙げた路上観察の物件は、その存在が無用でありながらも、不動産に付随するものとして保存されているという共通点があります。街角の人目のつかないところにひっそりと、しかし堂々と鎮座している無用の長物を「トマソン」と名付けたのは、私がもっとも尊敬する芸術家の赤瀬川原平です。なぜトマソンというのか、については後でお話しします。前置きが長くなってしまったけれど、何が言いたいかというと、路上にトマソンを見出した赤瀬川原平たちの、「観察力」 「発想の転換と見立て」「『こうあらねばならない』からの脱却」がとても優れていて面白いポイントだということです。

まず、観察力について。ちゃんと見ようとしっかり目を見張っていないと、トマソンなんて見落としてしまう。スマホを見ながら歩いていては見つかるはずもありません。重要なのは、他の人が「どうでもいい」「取るに足らない」と見過ごしてしまいそうな小さな、けれどもきらりと光るものを、見落とさずに面白いと感じる感性を赤瀬川たちは持っていたこと。つまり、観察力には、「注意深く見ること」の前に、「他人が見落としてしまうものを発見する感性」が存在する のです。「この感性」があると、まず街歩きが楽しくなります。なんの変哲もない普段の通勤通学路が、面白いもので溢れかえってきて写真を撮る手が止まらなくなり、きっと時間を忘れて我に返った時にはもう遅刻してしまっているでしょう。街歩きだけでなく、普段買い物をするとき、職場で、学校で、同僚や友達と話しているときに、ちょっと他人とは違った視点で、他人が気が付かないようなことについて物事を見たり考えたりしゃべったりすることができるようになると思 うのだけど、どうだろうか。

次に「発想の転換と見立て」についてお話しする前に、省略していた「トマソン」の名前の由来について。1982年の当時、読売ジャイアンツ球団は、アメリカで活躍していた大リーガー、ゲーリー・トマソン選手を高給で迎え入れた。鳴り物入りで入団し、野球ファン皆に期待されていたにも関わらず、トマソン選手がバットを振ってもなかなかボールが当たらない。バットにボールが当たらないので、仕方がないのでベンチに戻る。バットにボールは当たらないけれども、皆が期待している大リーガーである。だからすぐにお役御免とはならず、球団からきちんとお金をかけられてベンチで保存される。無言でベンチに鎮座するトマソン選手。その姿と、街中にひっそりと存在する、不動産に付随する無用の長物とを重ね合わせて、その物件の集合体に「トマソン」と 名付けたのだった。 街を観察し、「あ、これは」と思うものに出会った時に、ただ面白いで済ますのではなく同じような物件を収集して名前をつけたこと。そして、その物件の集合体としての概念をトマソンと名付けたこと。これが「発想の転換と見立て」である。普通は、「なんだこんなもの、取るに足らない」と片付けてしまうものを、「おや?」と気づき、「面白い」と感じて、「あれ、なんかアレ に似てるね……」とひらめき、別の何かに「見立て」る。この一連の流れ、なんかアレに似 てませんか?そう、かつて千利休が侘び茶を発明した流れと瓜二つです。と言ってもなんのことやらとお感じと思いますが、これを話すと長くなるので赤瀬川原平の著書『千利休 無言の前衛』を読んでください。何かを見つけて面白がって、「あ、あれに似てるよね」と共通項を見つけ出し、見立てて名前をつけて分類する、まるで帰納法のようですね。これもまた日常生活を少しだけ面白くしてくれるエッセンスになると思うのです。

次に、「こうあらねばならないからの脱却」について。色々お話ししてきましたが、一番言いたいことはこれです。日々社会生活を送っていると、テストで高得点を取らないと親や先生に怒られる、いつまでにレポートを出さないと単位がもらえない、売上予算を達成しないと評価が下がる、などの様々な「なければならない」がびゅんびゅん飛んできます。確かに、そうしないと試験 に受からないし、単位はもらえないし、良いお給料はもらえない。でも、「こうしなければなら ない」けれども、それが達成できなかったからといって、別に悪いわけではないのです。つまり、「そうしなければ」、期待の結果は得られないけれど、絶対に「こうあらねばならない」わけではない。仕方がないじゃないですか、テストで良い点が取れなくても、レポートが間に合わなくても、売上が悪くても。ただその事実が目の前にあるだけです。その事実を受けて、また頑張るでもいいし、別の方法で取り戻せるならばそれでいいし、向いていないならやめればいい。むしろその事実を面白がってみてはどうでしょう。千利休や赤瀬川原平たちの「見立て」のように。 西洋から輸入されてきた「合理主義」は、目指す一つのゴールへの最適で最短のルートを合理的に考えるのをよしとする思想です。でも、決められた一つのルートを走るのは面白くないし、とっても素晴らしい結果が待っているとしても、みんな一緒のゴールではつまらないと感じてし まうのです。しかも、そこから外れると、というか外れてはならないという無言の圧力がある。 唐から輸入された海外製の高級な茶器こそがよしとされていた時代に、捨て置かれていたも同然の古びた茶器に趣を感じて侘び茶の文化を作り上げた千利休。新しいものこそ素晴らしいと、 方々に高層ビルが建築されようとしていた80年代に、新しく綺麗で整然とした建造物からはこぼれ落ちてしまったものたちに面白さを見出し、トマソンを発見した赤瀬川原平。この二人は、大勢による無言の圧力、右向け右の空気を押し除け、新しい価値を作りました。

良い悪いを一つの尺度で決めつけては、新しいものは何も生まれません。 もちろん、「仕方がないじゃないですか、逆に面白くないですか」と会社や学校で言うと、だいたいは怒られます。世の中は合理的にできているからです。だから、表面上は「合理的」の皮をかぶってうまく隠れつつ、内心は面白がってやりましょう。「合理的」からこぼれ落ちてしまったものを拾い上げ、面白がる気持ちを忘れないようにしましょう。世の中をびっくりさせるような新しい発見は、実験中のちょっとしたミスや、予想と反する結果から生まれることも多いのです。 路上観察とだいぶ話が逸れてしまいました。私は路上観察をするなかで、合理的ではないもの、 つまり人間の意識や意図から外れたところにあるものを見つけて面白がっているわけです。このお話をいただいた際に、2500字程度で路上観察への熱を語ってくださいと言われたのですが、こ れでいいのでしょうか(3500字超)。これでいいのかわかりませんが、私は路上を観察して純粋にその視覚的快感を楽しむ以外に、こんなことを考えています。

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路上の目

Instagram :@iaoiaoiaoiao
都内在住の会社員。散歩をしながらなんとなく“味”のある物件を探すのが好きだったのだが、あるとき赤瀬川原平著書「超芸術トマソン」に出会い、私が探していたのはこれだったのだ……となり、現在に至る。最近は“コーナーステップ”を収集するのが好き。

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