漢字はうざったい?/偏愛道vol.3 漢字

漢字はうざったい?/偏愛道vol.3 漢字

世の中には、暮らしの中で思わず通り過ぎてしまうような“ときめき”に出会い愛する人たちがいます。その“ときめき”を、マジメに向き合ってしまう楽しさを、出会いを、想いを知りたい。「偏愛道」は、そんな企画です。

今回は、「漢字」を偏愛する、安井将剛さんによる寄稿です。

漢字はうざったい?

 あなたにとって「漢字」とはどういう存在だろうか。

 100回書くもの?暗記するもの?うざったいもの?

 残念ながらそのどれも今の日本教育では否定できない。かく言う私も小学生時分には漢字書き取りの宿題などは上手くサボっていた記憶がある。当時の私がなぜ漢字の宿題をサボっていたかということを考えると、おそらく当時からかなりの数の漢字を知っているという自負があったからだろう。生意気なことこの上ない。しかし、生意気な少年にも言い分はある。「なぜ無理に100回書いたり暗記したりしないといけないんだ。覚えるためだというなら僕はもう覚えているんだ」と。その思いを抱えたまま大学で文学部に入り、様々な文字を目にするようになった私は、漢字というものの完璧さ・奥深さを実感した。

漢字と他の文字の違い

 ひらがなやカタカナはそもそも漢字を簡略化したものであるのでここでは割愛する。他によく目にする文字といえばアルファベットだろう。

A,a,B,b…

アルファベットは周知のとおり、大文字・小文字それぞれA~Zまでの26文字ずつだ。一方の漢字は常用漢字だけでも2136文字ある。人名用漢字などの我々が普段目にするものも含めると3000は優に超えるだろう。これほどの数の文字を一般的に扱う民族は他にあまり例がない。漢字が嫌いな人は言う。「こんなに多いから覚えるのが大変なんだ。アルファベットみたいにもっと少なくなればいいのに」漢字はなぜここまで多いのだろうか。

 アルファベットの「A」や「a」はそれ単体では意味を持たない。「Apple」など、他の文字と組み合わさることで初めて意味を持つのである。では漢字はどうだろうか。例えば「紙」の一字だけで、今この文章を読んでいる皆さんは意味が理解できるだろう。加えて、この漢字は「カミ」と読めるが、他にも同じように読める漢字はいくつかある。神・髪・上などなどだ。先程の「A」は「エー」と読むが、同じ読み方をする文字は他のアルファベットにはない。

漢字って?

 先程、つらつらと漢字の特殊性について述べたが、私が述べたのは「日本語での漢字」だ。「いや、漢字は日本語じゃないか」そんな声が聞こえてきそうであるが、そもそもは「漢」の「字」である。「漢」というのは昔の中国の国名であるので、つまるところ漢字は「中国の文字」なのだ。では今も中国では漢字が使用されているのかというと答えはイエスでもありノーでもある。中国本土では現在、簡体字と呼ばれる元々の漢字を省略したものが使用されている。「歓迎→欢迎」という具合である。この簡体字は現在の国家体制になってから使用され出した歴史の浅い文字なので、また変更される可能性も十分にあるだろう。実は日本でも同じような簡略化は行われている。「學→学」という具合だ。現在の日本では旧字体も新字体も使われることがあるので、しばらくはこのままであろう。

 日本の漢字と中国の漢字が違う部分はまだある。それは、「訓読み」である。先程の「紙」という漢字で言うならば、訓読みでは「かみ」、音読みでは「シ」となる。音読みの「シ」という読み方は中国から漢字が入ってきた際からある読み方だが、中国では「かみ」といった読み方はしない。これは、日本人が漢字に意味をあてがったときに採用されたものをそのまま読み方として使用しているのだ。この「訓読み」というものは非常に画期的だ。この文章は2000字程だが、もしこれを音読みだけで書くとなると文字数は倍程度に膨れ上がるだろう。実際に奈良時代の日本で使用されていた万葉仮名は文字の読みを漢字の音読みのみで表現したものだが、その文字を使って日本でも有名な一文、「吾輩は猫である」を書くと以下のようになる。

「和賀葉伊波根子出阿留」

現在の漢字を使うと7文字の文章が、万葉仮名で書くと10文字になっている。作文を水増ししたい小学生が漢字を嫌うのは、ここにも理由があるのではないかと邪推してしまう。文字の意味をそのまま読み方にするなんて、当時の日本人は勤勉だったのか怠惰だったのか、タイムスリップでもして直接インタビューをしてみたいものだ。

私が得た気づき

 少々話がずれてしまったが、私がここまで漢字にはまったのは大学生になってからのことである。塾講師のアルバイトで古典を教えている際に、「そらごと」というキーワードがあった。意味としては「嘘」というだけなのだが、この「嘘」という漢字が引っかかった。この漢字は、「虚〈そら〉を口で言〈ごと〉う」と書くのだ。嘘は口を使うものなのだから、口偏になるのも当然だ。同様に、キョと読むのだから虚という漢字を使うのも当然である。ここで私が感動したのは構成の完成度の高さだ。「口+虚=嘘」という至極単純な式で導き出されているが、意味・形・使われ方などのすべての要素が「口+虚=嘘」という式を完璧なものにしているのだ。漢字の成り立ちには象形・指事・会意・形声といったものがあるというのは小学生のときに習っているし、「山という漢字は実際のヤマに見立てて作られているんですよ~」なんてことも教わった記憶がある。けれど、それは所詮教わった知識であって、日常生活で漢字の成り立ちを考えながら読むことはないだろう。私は元々、人並み以上に漢字が得意だと思っていた。だがそれは文章を読むのに役立つといった程度で、漢字そのものについて考えたことなどなかった。しかしこの「嘘」の気づきで漢字にはそれぞれ意味があって成り立ちも違うということを再認識できた。

 この気づきは私にもう一つのモノを与えてくれた。それは、「学ぶこと」についてである。これまで受けてきた「教育」はほとんどの場合、教師などから与えられるものであった。一方で大学での「学び」は自分から取りに行くものだという。このギャップに苦しむ大学生は多いだろうし、私もそうだった。しかし、この「嘘」に対する気づきによって「学びを取りに行く」ことを根本から理解できたように思う。自分で気づくこと。それが学びの第一歩なのだ。この気づきはアルファベットにはない漢字特有の性質があったから得られたものだ。

 漢字はただの文字に過ぎない。だが、その文字が様々な属性を含んでいるからこそ、私は「学び」という我々初学者が理解せねばならない概念の本質に触れることが出来たのだと思う。気づき・学びは枝分かれするものだ。世の中に溢れている漢字が次にどんな学びをもたらしてくれるのかを楽しみに日々を過ごしている。

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安井将剛

仏教学科の大学生。現在は漢検一級取得に向けて勉強中。

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