あのミズカマキリ様に憧れて / 偏愛道vol.10 水生昆虫

あのミズカマキリ様に憧れて / 偏愛道vol.10 水生昆虫

「あのミズカマキリ様に憧れて」に寄せて(編集長)

あの島倉が選んだのは、ミズカマキリだった。

島倉は、私の高校の同級生である。歴史科目の出来が別格で、校内でも名を馳せていた。

彼は、大学、大学院でも歴史の研究を続けている。MAJIME ZINEでも、歴史のご意見番的存在として、「〈第三世代〉戦争再考企画」や「点綴会」に深く関わってもらってきた。

その島倉に、満を持して「寄稿を、自由に」とお願いしたのは私であるが、ミズカマキリという名のファイルが送られてきたとき、しばらく頭の「?」が消えなかった(そもそも私はその生き物を知らなかった)。

ただ、読むととことん、島倉なのだ。

友人として私は、島倉の島倉たらしめる部分が、既述のような堅い経歴にはおさまらないところにあると思っている。むしろ、その堅さを溶かす人柄があってこその、島倉なのだ。

好奇心、オルタナティブへのぶれない眼差し、機転、そしてユーモア。

彼が「自由に」語るために必要だったのは、経歴からあえてずれ、原点へ戻ることだったのかもしれない。

「あのミズカマキリ様に憧れて」(島倉)

生き物が好きだ。

文系の学部から人文社会系の大学院へ進学した人間だから、ややこしい説明をしなくて済むように普段はあまり言わないのだけれど、かつては生物部の部長をしていたくらい、本格的な生き物好きである。

頑なに「生き物」というのも、「生物」と言ってしまうと、まるで受験科目の生物が好きだという、いらぬ誤解を招いてしまう。

生物基礎までしか勉強していない人間が「生物」好きなわけがないので、字数がかさんでもあえて「生き物」と言わせていただく。

つい筆がすべって、「本格的な生き物好き」などと言ってしまったが、本格的という割には、生まれつき生き物が好きだったというわけではない。

実家が山を背にしていたのと、家の近くには小川や池もあったりして、生き物が身近な環境で育ったのは確かで、ザリガニやらタニシやらカブトムシの幼虫なんかを泥まみれになって捕まえた記憶はあるのだが、何度も熱心に採りに行ったという記憶はない。

ハマらなかったんだろう。

いつ池に行っても、採れるのはアメリカザリガニかタニシばかりで目新しさがなく、すぐに飽きてしまった、という理由がまず考えられる。

それから、いつも大漁だったという、ある意味贅沢な問題もある。

ものの30分で、バケツいっぱいのザリガニをとっ捕まえられたのだが、私は行政に委託された駆除業者でもなければ、ザリガニの量り売りで生計を立てている漁業組合の一員でもない。

探すまでもなく、こうも入れ食い状態だと、やりがいもなくて、やはり飽きてしまったのだろう。

そんな私が、「本格的な生き物好き」になるきっかけとなったのが、車で15分ほど走った町にあるペットショップだった。

魚といえば、例のザリガニ池に住む鯉か、金魚すくいの金魚という狭い世界で生きてきた島倉少年は、所狭しと並んだ水槽を泳ぐ色とりどりの魚にあっという間に魅了された。

もし万が一にも、光る宝石のような魚たちがダサい名前なら救いようがあった。

しかし、「エンゼルフィッシュ」「ゴールデンネオンテトラ」「アフリカンランプアイ」などという、熱帯魚のあまりに洒落た名前は、小学校低学年ほどの私の「中二心」をくすぐった。

こうして本格的な生き物好きは、毎週のようにそのペットショップへ通うようになった。

そんなある日、これまでにはいなかった新しい生き物が入荷されていることに気づいた。

並んだ三つの水槽には、それぞれ「タガメ」「ゲンゴロウ」「ミズカマキリ」と書いてある。

でっかいカメムシと、せわしなく泳ぐコガネムシと、茶色くて細い枯れ草のようなカマキリが水の中にいた。

なんだこれは。

「田亀」「源五郎」「水蟷螂」という、純米大吟醸のような剛健な名前と、余計な飾りを一切取り外した簡素で少し不気味な見た目は、ブルジョア趣味にどっぷり浸かって豪華絢爛な熱帯魚に目が慣れた小学生の私にとって、かえって新鮮だった。

水生昆虫は、読んで字の如く、水の中にいる昆虫であり、2つに大別される。

1つ目は、先ほどから何度か出ているタガメやゲンゴロウのように、そのほぼ一生を水の中で過ごす昆虫。

2つ目は、トンボの赤ちゃんのヤゴのように、幼生の間だけ水中で過ごす昆虫である。

昆虫といえば、山とか公園とか、陸にいるものをイメージするし、大部分が陸生なのだろう。

だからこそ、水の中にいる昆虫という少数派の声に耳を傾けたくなる。

元々生物はみんな水の中にいて、次第に陸生になっていったのが進化の過程であるから、水生昆虫というのは先祖返りした事になる。

しかし、でっかいカメムシや細いカマキリという見た目通り、彼らの体は陸上に対応したままなのだ。

水の中にいて困る1番の問題は、呼吸である。私たちがどれだけ水中に憧れても、水から酸素を取り込めないから水中に住むことはできない。

水中は窒息を必然とする過酷な世界。

私が昔から魅せられている、水槽の世界とは、ガラス一枚隔てただけの、しかし人間が決して立ち入ることのできない異世界なのだ。

そんな水中世界に、あえて飛び込んでいった水生昆虫たち。

おそらく、陸上での競争に敗れたのだろう。

その点でタガメもゲンゴロウも、陸上生存競争の敗者である。

ただし、彼らは陸上でおめおめと滅亡していくのを座して待つのではなく、水中という、新境地の開拓を選んだ。

陸上での生活に嫌気がさしたり陸から追い詰められたりした者が、水の中へ逃げるのはよくある話だ。

たとえば、「およげ!たいやきくん」には「ある朝僕は店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込んだのさ」という歌詞があるし、『海底2万里』のネモ船長は陸上とは隔絶した独自のユートピア:潜水艦ノーチラス号を創り出した。

ただしやっぱり、たいやきくんは「しおみずばかりじゃ ふやけてしまう」と、海を根本から否定することになるし、ネモ船長も最後はノーチラス号と共に海底に沈んでいく。

水中は、DNAに刻まれた本能的な逃げ場所である一方で、死と隣り合わせの諦めの場所でもある。

だから、水中への逃避に絶望した者は、陸上の運命と立ち向かう覚悟を決めていくことになる。

このように水中は、逃げの一手としてはリスクが大きい。

それでも水中の栗を拾わんと、その大バクチに打って出たのが、水生昆虫だった。

水生昆虫は、決して叶わない、私たちの水への憧れの体現者なのだ。

タガメは尻から管が伸びていて、水面に突き出して呼吸をする。

ゲンゴロウに至っては、そんな管すらも持ち合わせないので、水面までわざわざ浮上して、直接尻を突き出して呼吸する。

この呼吸法を初めて見たときは、なんてマヌケなことをしているのだと思ったが、マヌケだったのは私の方で、彼らにとってこの呼吸法は、水中という過酷な環境に適応するために編み出した知恵だった。

逃げる勇気もなく、漫然と陸上を生きている私には、尻を突き出して呼吸するゲンゴロウの姿があまりに眩しい。

そんな水生昆虫であるが、彼らは水中で生きるという大バクチに勝ったのだろうか。

長い目で見たとき、負けたという方が良さそうだ。

ペットショップで水生昆虫に一目惚れした私は、帰ってすぐに網を携えて、最寄りの池や田んぼやレンコン畑を探し回った。

けれど、まるで採れない。

現在、タガメもゲンゴロウも、環境省によりレッドリストに指定された絶滅危惧種となっている。

タガメに至っては38道府県で生息が確認されておらず、「特定第二種国内希少野生動植物」なるものにまでなっている。

私の出身地・新潟県でも、すでに絶滅したそうである。

絶滅の理由は、農薬の影響が大きいといわれている。

私はいくら偏愛しているからと言って、「タガメさんを守れ!農薬を使うな!」と言う気にはならない。

タガメもゲンゴロウも昆虫なので、飛翔ができるから逃げられる。

タガメやゲンゴロウの逃げ込んだ水中は、ライバル昆虫がいないという点ではブルーオーシャンかもしれないけれど、魚類をはじめ多くの生き物のいるという点では、紛れもないレッドオーシャンだ。

たとえ、日本の生態系では勝ち抜けても、アメリカザリガニやウシガエル、ブラックバスといった外来種が相手ではひとたまりもなく、飛んで逃げるしかない。

逃げた先にあったのが、田んぼだ。

田んぼは稲刈り前に水を抜くので、ブラックバスのような天敵が住むことはできない。

水生昆虫にとっては安住の地だった。

田んぼは、水生昆虫にとって安住の地でも、我々人間にとっては1番の食糧生産地だ。

ただでさえ物価が高くて苦しいのに、タガメのために全ての田んぼを無農薬にしたら、コメの値段は跳ね上がり、令和の米騒動の引き金となってしまう。

思えば水生昆虫は、常に劣勢という宿命を背負っているのだと思う。

逃げては戦い、逃げては戦う種の歴史。

無骨な名前と、見る者を寄せつけない不気味なルックスは、長年の迫害と抵抗の歴史を物語っている。

ひっそりと、しぶとく、信念を持って生き延びる。魅せられないわけがない。

タガメには、ペットショップで見かけて以来、お目見えしていない。

ゲンゴロウは、実は中学生の時に一度だけ、お金を貯めてペットショップで買ったことがある。

数年越しの憧れをついに手にしたのだったが、1週間ばかりで死んでしまった。

生き物をこんな短時間で死なせたことはなかったので、ショックだった。

私の水生昆虫愛の圧が強すぎて、ストレスだったのかもしれない。

それから、水生昆虫は絶対に飼わないと心に誓った。

憧れは憧れのままにしておかなければいけなかったのに、一線を超えてしまった後悔でもある。

そして、今は、自然の中にいるものを一度でいいから見つけてみたいという憧れを持っている。

実は、一度だけ、野生のミズカマキリに出会ったことがある。

中学校の水泳の授業。

田舎だったから、野晒しのプール。

水面に何かが浮いているのがプールサイドから見えた。

ミズカマキリだった。

あれだけ田んぼやレンコン畑を探しても出会えなかった水生昆虫のミズカマキリ様と、塩素まみれのプールでお目見えすることになるとは。

そして、この空間に、ミズカマキリ様の霊験を理解してくれるやつなんて1人もいない。

このままだと中学生のバタ足が生み出す大波でミズカマキリ様は排水溝やプールサイドに押し流されてしまう。

けど、どうしたら……。

そんなとき、1人の生徒が「先生、虫が浮いてる」と。

体育教師はゴミ取り用の長い網で水面を撫でるように、ミズカマキリ様をヒョイっと掬うと、遠心力そのままに外へ放り捨ててしまった。

それきり、ミズカマキリ様はおろか、水生昆虫には出会っていない。

いざ探しに行っても、出会えない気がする。

ただ、これからの人生で、いつか一度くらい、生きづらい世の中を確かに生きる水生昆虫にバッタリ出会えるのではないか。

里山の原風景の中では、水生昆虫は馴染み深いものであったらしい。

だから、懐かしさを求めるときには、本能的に水生昆虫の存在を追い求めてしまうのだろうか。

「またいつか」に淡い期待を抱きながら、生きる希望の一つとしている。

憧憬はこの世の希望の一つかもしれない。

ミズカマキリイラスト:https://www.irasutoya.com/

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島倉

新潟県出身。東京都在住。文系大学院生。

MAJIME ZINEでは〈第三世代〉戦争再考計画点綴会に参加。

好きな言葉:「頑張りすぎずに頑張る」 「魂は歳を取らない」

興味があるもの:日本近代史|昭和歌謡|野良仕事|相撲(観る専)|飲み歩き|節約

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