「エモい」としか言いようがない。/辞書企画vol.2

「エモい」としか言いようがない。/辞書企画vol.2

「エモい」という語をご存知だろうか。と、書きかけて、やめた。

筆者の肌感覚としては、日常の中で当たり前のように接する言葉であるように思う。皆さまにとって「エモい」は親しみ深い言葉だろうか。

辞書企画第2弾である今回は、「エモい」の語について考察を試みたい。

「エモい」の意味

まず、一般的に共有されている「エモい」の定義について触れておく。『大辞林』第四版に、「エモい」の項目が見られる。

【エモ・い】(形)[感動を意味するエモーション(emotion)から](主に若者言葉で)心に響く。感動的である。

『大辞林』第4版(2020年 三省堂)

まず辞書に「エモい」の記述があることに驚きを隠せないが、内容はいたって簡潔である。勿論、限られた文字数で語釈を付すことが使命の辞書。しかも25万1千語もの語彙を収録しているという『大辞林』においては、簡潔な記述であるのは当然である。

ここで注目したいのは、「主に若者言葉で」の部分である。『大辞林』第四版刊行にあたって開設された特設サイトには、「若者言葉」も採録していることを伝えるページに「エモい」の言葉もある。

若者言葉としての「エモい」

「エモい」は、英語のエモーショナルを短縮して「い」をつけ、無理矢理形容詞的にしてしまったという明らかな造語だ。若者言葉として扱われることが多いのは当然であろう。

筆者は若者世代であることに間違いはないが、所謂「若者言葉」を積極的に使用するタイプではない。世の中には「エグい」「とりま」「ぱおん」「しか勝たん」……もはやよくわからないような言葉たちが溢れかえっているが、「エモい」もその一種に数えられる言葉なのだろうか。

感覚的な問題に過ぎないかもしれないが、「ヤバい」「エグい」は圧倒的語彙不足の印象を与えるが、「エモい」はそうでもないような気がする。

「エモい」という感情は、もはや「エモい」という言葉によってしか表現できないように思われる。たくさんの言葉を尽くしてその感情を因数分解しようとするならそれは可能だが、「エモい」に該当する「形容詞一語」を、筆者はまだ知らない。

恐らく「あはれ」(古語)が一番ふさわしいと思われるが、友人との会話で唐突に「あはれ」なんて言い出したら引かれてしまうのは必至である。高校古文では、「あはれ」の訳は「しみじみとした趣がある」だと教わる。やはり「あはれ」を現代語にするには、これほどまどろっこしい言い回しをしなければならないのであろう。

もはや代替不可能である「エモい」という言葉が、「若者言葉」という枠を飛び越え、より広い世代に親しまれる、市民権を有する言葉となっても良いのではないか。そんなふうに考えている。今回、「エモい」の語を取り上げたのも、この点に起因する。

「エモい」感情とは如何なる状況下において湧き起こるものであるか。

一般に、「エモい」は、「エモい音楽」「風景がエモい」「友達と過ごすこの時間がエモい」といった場合に用いられることが多い。

先に確認したとおり、「エモい」とは感動、すなわち個人の心に湧き起こる非常に個人的な感情を意味する。

筆者がエモいと感じるのは、例えばこんな場面。

基本的に、午後4時はエモい。陽がかげるにつれて、「夜」の足音が近づく。一日の疲れに、色んな家庭の夕飯の匂いが沁みる。少し冷たくなった風が、さらに私の底に潜んでいた感傷の端っこを掴まえて引っ張り出そうとしてくる。明と暗がせめぎ合っているような、刻々と変化する空の色は、自ずと相克する感情を照らし出す。

こんなことを書いていては、「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際…」と四季の「あはれ」を綴った『枕草子』の著者・清少納言に鼻で笑われそうだ。

人間の感情や感覚は、複雑である。

「嬉しい」と感じる時、脳内の全てを「嬉しい」の因子が占めているわけではないだろう。「悲しい」も然り。

幸せであると実感する時、それが失われることへの不安に駆られる。綺麗なものの背後に、どことなく哀しさがある。翳りがあるから、美しい。

そういった表裏一体の感情や美的感覚が「エモい」という感情の一つの因子になっているような気がしてならない。

忘れられない瞬間がある。

ある日の喫茶店からの帰り道、友人と二人歩いていると、ビルとビルの隙間から、赤、橙、青、紫……微妙で繊細なグラデーションを織り成す空が見えた。私は圧倒されて言葉を失っていたその時、彼女は、静かに一言。

「なんとも分解しがたい色だぁ……」

あの瞬間、わたしたちは確かに「エモい」という感情を共有していた……

「エモい」の語釈を膨らませて差し上げます。

さて、ここまで読んでも今ひとつ腑に落ちないあなたへ。

今から「エモい」という感情を簡単に感じられる方法を一つだけ、ご提案します。

今握っているスマホのカメラロールを開いてください。そして、夥しい数の写真たちをスクロールしてみてください。できれば、一番古いところから。きっとそこは、「エモい」の宝庫です。あなただけの「エモい」があるはず。

第三者に見せても、その「エモさ」をわかってもらえないような写真も多いだろう。なぜなら、「エモい」という感情は、体験、時間、実感、思考、思い入れ、美化、といった個人的なものから切り離して捉えることのできないものだからである。「あの人と一緒だった」場所だからこそ、「あんなことを考えていた」時のものだからこそ、その写真は、あなたにとって特別な意味を帯び、「エモい」写真として捉えられるのではないですか。

カメラのシャッターを切るという行為は、その瞬間、時間は止められないという、当たり前の摂理に、あなたが抗おうとした証である。

「この瞬間をフリーズドライしたい」

そう思える場面を、風景を、誰かと過ごした証を、かけがえのない時間を、わたしたちは写真という「形」に残そうとする。その原動力となるのがまさに、「エモい」という感情なのだ。

MAJIME ZINE 的語釈

最後に、「エモい」に筆者なりの語釈を示して筆を置きたい。

【エモい】(形)圧倒的な場面に出合った時の、あの「言葉が足りない」という感覚。経験に裏付けられた深く主体的な感動に身を包まれる。

「主体的な感動」とは、例えば何かを見る、聞くといった受動的な経験であったとしても、その体験の感動を「共有したい」「保存したい」といった主体的なアクションにつながる感動のことを表現しようとしているものである。

「エモい」という感情が「超」個人的なものである以上、完全に客観的な記述など不可能に近く、頭を悩ませた結果がこれである。

本来、語釈とは、正確さ、簡潔さ、わかりやすさの全てを兼ね備えた客観的記述であるべきものである。この語釈は、個人的で共有不可能なものになってはいないだろうか。

ここまで、個人的な「エモい」論を繰り広げてきたが、これは一見解に過ぎない。どんな言葉も人によってイメージするニュアンスが異なるというのはよくあることだが、「エモい」という複雑で繊細な感動を表す語ほど、人によって捉え方の異なるものはないのではないか。

人の数だけ、「エモい」はある。

AM3:00の鴨川。
AM4:00の四条。
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モエコ

副編集長。福井県出身の大学生。日本近代文学専攻。

好きな言葉:「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」
編集部での役割:ねちねち編集、校正、Instagram、諸々のちいさなこと

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