恋愛は複雑だからこそ /点綴会vol.4

恋愛は複雑だからこそ /点綴会vol.4

アイキャッチ制作:宮川駿介

点と点を綴り合わせて線を描くように、関心も背景もばらばらなメンバーの、視〈点〉を掛け合わせ、テーマを深掘る読書会企画「点綴会」。

前回、『曽根崎心中〜これは恋? 愛?』にて「恋」と「愛」について激論を交わしたメンバー。それを踏まえ今回は、それぞれが「恋愛」をテーマに選書しました。

恋愛という、二人の気持ちが絡み合う最高に複雑な営みを、先人たちはあの手この手で言葉にしてきました。そのせいか今回はいつになく、詩、短歌、50年代の小説、現代の小説と切り口が多様です。

気になる本を入り口に、メンバーたちの恋愛論に耳を澄ませてみてください。


今回の点綴会メンバー

ユキノ:MAJIME ZINE編集部員。大学時代は日本近代文学を専攻。執筆記事はこちら

ナカノ:MAJIME ZINE編集長。大学院で博物館学を専攻。執筆記事はこちら

島倉:大学で日本近現代史を専攻。MAJIME ZINEでは 〈第三世代〉戦争再考計画 に参加。

大木:大学院でデータ科学を専攻。MAJIME ZINEが開催レポートを担当したイベント「超分野大喜利」の運営者。

ユキノ選書|高村光太郎『智恵子抄』

amazonより引用

高村光太郎著、『智恵子抄』、1956年、新潮社

情熱のほとばしる恋愛時代から、短い結婚生活、夫人の発病、そして永遠の別れ……智恵子夫人との間にかわされた深い愛を謳う詩集。

新潮社HPより引用

「恋愛」(ユキノ)

妻智恵子と知り合ってから、彼女が死ぬまでの作品を集めた最も純粋な愛の詩集。

ふたりの愛情は、彼らを襲ったさまざまな苦難と引き換えのように、美しく純真なものだった。光太郎自身は、「裸のような家庭」とその様を述べる。光太郎は彫刻家・高村光雲の息子として、智恵子は裕福な家庭の子女として育ったが、どちらも家を飛び出し、芸術を志向した。そのため生活は苦しく、やがて智恵子は統合失調症を発症、闘病生活の末亡くなる。

彼女の死後、光太郎は言う。

「その製作が心の底から生て出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに愛のやり取りがいる。」

生まれた土地の違い、病と死に引き裂かれながらも、互いのために作り続けた彼らの作品は、時を超えて私たちの胸を打つ。

どんな苦難も美しく意義ある創造の種に変えていく力。私にとって恋愛とはそういうものである。

「愛情の強さが、いろんな技巧や表現を全部ぶち破ってしまう」

ユキノ

芸術的成功にも至る秘訣が、愛ってすごい。ちょっと反則技だもんね。

ナカノ

「芸術的成功」が何を指すのかにもよるね。ユキノの言う「反則」って?

ユキノ

愛情の強さが、いろんな技巧や表現を全部ぶち破ってしまう、下剋上があるのが詩歌だと思ってる。与謝野晶子の短歌もそう。 例えば絵だと、どんなにいい恋愛をしても、うまく絵が描けないと優れた画家は超えられない。それに対して詩は、その道を志してた人ではなくとも教科書にも残ってる。これはやっぱり愛の力じゃないかな。

ナカノ

そういうことか。ユキノはこの本から反則技になりうるエネルギーを感じた?

ユキノ

感じましたね。己を超えていく力みたいなものがあります。

島倉

ところで、純粋な愛ってこの詩集ではどれほどなんだろう。

ユキノ

「智恵子の愛した自然の全てに智恵子を感じる」なんて光太郎の発言からも、純愛が見えると思いますね。最終的にエゴがなくなっていく感じ。

中野選書|穂村弘『短歌ください』

amazonより引用

穂村弘著、『短歌ください』、2014年、角川文庫

本の情報誌『ダ・ヴィンチ』の投稿企画「短歌ください」に寄せられた短歌から、人気歌人・穂村弘が傑作を選出。鮮やかな講評が短歌それぞれの魅力を一層際立たせる。言葉の不思議に触れる実践的短歌入門書。

KADOKAWA HPより引用

「恋愛」(ナカノ)

暮らした街を出るカウントダウンが始まると、一度だけ行った店が、見慣れた街路樹が、私に「あの時」を思い出させる。

そしてその記憶には、誰と、何を、だけでなく、色やにおい、温度など、五感経由の情報も、同じくらいの鮮度で含まれていたりする。

それらたくさんの情報が、記憶に凝縮しているが、多くは忘れられていく。だからこそ、私たちは記憶を語り、言葉の力を借りることで、自分に落とし込むのだろう。

とりわけ恋愛の記憶は、体温から鼓動まで、何もかもが鮮明だ。日本人は、その繊細な記憶の片々を、定型詩に留めてきた。その営みは、万葉の時代から現在まで変わらない。このことを伝えるのが、『短歌ください』だ。

「恋愛」をテーマに集まった、匿名の歌からは、詠み手の記憶が生々しくにおいたつ。

「明日もまた同じ私じゃないんだと思い出させてくれる傷あと」(p. 24より引用)

微妙に変化する渦中の心を、丸ごと受け入れ〈今ここ〉に伝える、短歌の懐の深さこそ、恋人たちの拠り所なのではないか。

短いから、伝わる

ナカノ

この短歌(「明日もまた同じ私じゃないんだと思い出させてくれる傷あと」)、私は最初、恋愛の歌だと思って読んでました。でも読み直してみたら、作者の意図は恋愛にとどまらないようにも感じたの。

ユキノ

そういう解釈の幅があるのも、短い詩の面白さだよね。この歌のどの部分が恋愛だと思った?

ナカノ

「傷あと」が最後に来るから、失恋の歌かなと思って。 失恋した時って落ち込んだり、ちょっと回復したりを繰り返すよね。 でも徐々に、傷はかさぶたになって、白くなって、消えていく。それを見ると、「あ、自分は進んでるんだな」って思い出させてくれる。

ユキノ

傷を受け合いながら成長していくというのは、すごく恋愛っぽい感じがします。

島倉

俳句や短歌って短いのに、これだけの情報を詰め込めるってすごいな。 短いからこそ情報が詰まるんですかね、逆説的だけど。

ユキノ

言葉の選択に、詠み手の心が宿るんじゃないかな?

大木

他の人が書いた恋愛の歌からは、そこに込められたものが伝わってくると思うんですけど、自分で詠んでも同じなのかな? だとしたら、写真の代わりに短歌で思い出を残すのも楽しいかも。

ナカノ

ユキノはそういう思いで短歌をつくるよね。自分の思いを残すための短歌?

ユキノ

うん。自分は中高生時代の若さに対して思い入れがあって。でも、いつかこれが書けなくなる瞬間がくる。それが悔しくてたまらないから、忘れてしまっても大丈夫なように刻んでいこうと思って、短歌を書いていたので。 それを見ると、その時の手触りが蘇ってきたりしますね。 そのことは以前記事 でも書いたんです。

大木

そうなんだ、面白いな。

ナカノ

高校生のユキノの短歌を読んで、今の私に、当時のユキノの気持ちがちょっとわかる。「自分ごと」にできる力があるよね。

恋愛と短歌の結びつき

大木

短歌と恋愛って、本当に昔からの結びつきじゃないですか。 以前読んだ万葉集の本(大谷雅夫、『万葉集に出会う』)では、恋という言葉に、孤独の「孤」と、悲哀の「悲」で当て字をしていたという記述があって。「なんて言語センスなんだ!」と僕は感動したんですよ。孤独の悲しみ、恋(孤悲)。 でも、なんでとりわけ短歌なんだろう。

ユキノ

穂村弘の『短歌の友人』 で、寺山修司がなぜ短歌が恋愛や青春と相性がいいのかについて語っていたんだけど。
七・七と同じ律が繰り返されることで、 永遠の自己肯程のような循環を生んでいるんだと。要は、無条件に肯定される感じが生まれると。自分でなければいけない証明・承認は恋愛にも必要だから、相性がいいんじゃないかなと思う。

ナカノ

短歌だと、作り手自身にしかわからないだろうことも、誰かが勝手にわかってくれてたりする。そういう自由さも関係するかもしれないね。

島倉選書|伊藤左千夫『野菊の墓』

amazonより引用

伊藤左千夫著、『野菊の墓』、1955年、新潮社

政夫と民子は仲の良いいとこ同士だが、政夫が十五、民子が十七の頃には、互いの心に清純な恋が芽生えていた。しかし民子が年上であるために、ふたりの思いは遂げられず、政夫は町の中学へ、民子は強いられ嫁いでいく。数年後、帰省した政夫は、愛しい人が自分の写真と手紙を胸に死んでいったと知る。野菊繁る墓前にくずおれる政夫……。

新潮社HPより引用

「恋愛」(島倉)

「恋愛」という言葉は近代の産物で日本には明治までなかった。それまでは愛が秩序的だったのに対し、恋は廓の中でのみ認められた擬似的な関係であった。西洋化の中で、逆説的だが遊郭という恋する場所がなくなったことで全ての場所が恋の舞台となった。また、恋心という近代的自我も認められていった。恋→愛が当たり前となりつつある、そんな時代が明治である。しかし古い秩序の残る地域ではまだ恋と愛とは別物で、恋は秩序の外のはしたないものであっただろう。近代日本は恋愛できる・できないでまだら状の地図を描いていた。

読者が歯痒くなるほど、政夫と民子はお互いの気持ちに鈍感であるが、これは読み手の現代人と違い、彼らが「恋愛」を知らなかったからだろうか。当時の千葉の農村はまだ恋と愛は直線関係にはない。近世の曽根崎のように恋が秩序の外に生まれた時、残された道は死であった。民と政の2人は互いを野菊・竜胆(リンドウ)の花に仮託し、その花を好きだといいあう。秩序になり得ない、成就しない恋は、花を愛でるというトリッキーな形で愛へと変わった。

政夫と非業の死を遂げた民子の恋は果たされず「昔のこと」になったが、野菊への愛は永遠であったのだろう。

民子への恋、野菊への愛

島倉

2人はお互いを花に仮託します。民子は野菊のような人で、政夫さんはリンドウみたいな人だと。
民子の死後、政夫は「亡くなった民子との恋は、昔のことで細かいことは覚えてない」って言いながら、まだ野菊を植えてるんですよね。 つまり野菊への愛は永遠だった。ここで恋と愛の分解を考えたら、 民子さんへの恋と野菊への愛っていう感じで分解できるのかな、と思った次第です。

ナカノ

花を愛でるというトリッキーな形はどこから生まれたのかな。

島倉

民子と政夫は、お互いに好きとは言えないんです。絶対結ばれないから。人を愛することは許されないけど、せめて花を愛することで、とりあえず愛は成就したよって自分を慰めたのかなと。“めでる”って愛でると書くなと。愛ってそういうことなのかな?

ユキノ

花をメタファーにして愛を語るって和歌っぽい!

恋愛感情は普遍?

ユキノ

ちなみに、鈍感な2人が花に託した時はお互いの気持ち、伝わってたの?

島倉

直接的なことは言わなかったですね。でも、「政夫さんはリンドウみたいな人ね、なら私はリンドウ好きになるわ」って、「もう好きって言ってるじゃないか!」って感じですよね、現代人の感覚では。でもその先の1歩はない。

ナカノ

その一線を超えられないのは秩序のせいなのかな、それとも個人の性格のせいなのかな?

島倉

恋愛感情って本能的なものか、文化的なものかが僕はわからなくて。昔から短歌で愛情を表現した記録があると考えると、本能的なものと言っていいかもしれないけれど。恋が愛になるのが当たり前だったのかが、私たちの感性ではわからないのかな。

大木

当時は結婚も早かったので今の10代とは比べられないけど、「出会ったけど、どうしても恋愛関係にはなれなくて、それでも初恋はいつまでも忘れられない」という感覚は、僕らでも理解できる気がする。30歳(の恋愛)だったら、こうはならない気がするんで。
そこが恋愛小説としての普遍性になってるのかなって思いましたね。

ユキノ

確かに淡い初恋の感じがしますね!

大木選書|恩田陸『灰の劇場』

amazonより引用

恩田陸著、『灰の劇場』、2021年、河出書房新社

きっかけは「私」が小説家としてデビューした頃に遡る。それは、ごくごく短い記事だった。一緒に暮らしていた女性二人が橋から飛び降りて、自殺をしたというものである。

様々な「なぜ」が「私」の脳裏を駆け巡る。しかし当時、「私」は記事を切り取っておかなかった。そしてその記事は、「私」の中でずっと「棘」として刺さったままとなっていた。

ある日「私」は、担当編集者から一枚のプリントを渡される。「見つかりました」――彼が差し出してきたのは、一九九四年九月二十五日(朝刊)の新聞記事のコピー。ずっと記憶の中にだけあった記事……記号の二人。次第に「私の日常」は、二人の女性の「人生」に侵食されていく。

河出書房新社HPより引用

「恋愛」(大木)

モヤモヤ感。「灰の劇場」の読後に感じるこのモヤモヤの正体はなんだろう? 

作中、小説家は自殺した2人が同性愛の関係にあった可能性に思い至る。許されぬ恋ゆえに死を選んだ。そして、遺族がその関係性を隠そうとしたために記事が匿名で報じられた、という説明は一見合理的だ。 

もし、彼女たちの人生を一般化された「恋愛」という言葉で受け入れることができればスッキリするかもしれない。しかし、小説家は単純明快な物語で彼女たちの事実を説明することを拒む。彼女たちの「日常」が「絶望」に変わるとき、その間にある現実をわかりやすい虚構で埋めることが許されないのだとしたら——。

私にモヤモヤした思いを残すことになった原因は小説家がわかりやすい虚構を拒否することにあるのだろう。名前を持たない彼女たちの人生を理解することは誰にもできない。「事実に基づく物語」は所詮、虚構に過ぎないのだから。 

実は「灰の劇場」を書き終えた恩田陸さんも、まだモヤモヤが晴れないらしい(「恩田陸が大森望と全小説を振り返る」、『白の劇場』、p. 97)。それなら、このモヤモヤは、モヤモヤのままで受け取ってみよう。そんな物語だって、きっとあっていい。

恋愛というフィルターにあらがう

島倉

「灰の劇場」は、実際に出てくるんですか?

大木

出てくるんですよ。前半、TとMが結婚するシーン。 そこで、白い羽根が降ってくるという描写があって、要は虚構のメタファーになってて。 現実と虚構ははっきりと区別できるものではない。でも、死んでしまった人の現実は取り戻せないし理解することができないから、現実と虚構が入り交じったようなものなんだっていう意味で、『灰の劇場』というタイトルを使ってるんじゃないかな、と思います。

島倉

なるほど。

大木

恋愛って観点で言うとすんなり納得できちゃう関係性っていくつもあるけど、実際は人それぞれ違うはずで。 もし恋愛だったとしても、それが事実かは僕たちにはわからない。わからないからこそ、恋愛という虚構で包み隠すことをしてしまいがち。だけど、あえてそれをしない選択を作者がした。

ユキノ

勝手に物語に「結ばれぬ恋!」みたいなフィルターをかけてしまっていることに対して、誠実に取り組もうとした作品なんだ。

大木

まさにそう。生きていく上での、現実の複雑さを理解できてるのかという問いですよね。 ここでの「灰」って「汚い、汚れた」という意味でも使われているんです。現実ってそんな綺麗なもんじゃないよな?と。

『野菊の墓』と『灰の劇場』を分かつもの

ナカノ

『野菊の墓』とのギャップがあるね。 でも、野菊の墓も、恋愛っていう言葉を与えていいのか?みたいなモヤモヤはあるよね。

ユキノ

政夫さんは子供もいるのに、いつまでも民子ちゃんに心が向いているのはどうなんだってモヤモヤはある(笑)。 綺麗すぎる夢が現実をよごすみたいな。

大木

事実に基づく物語って世に溢れてるけど、どこまでが本当のことなのかなって。綺麗に見えるところだけを物語にしてしまうこともできるから。 『野菊の墓』は、 恋愛のきれいな部分と、そのピュアさを阻むものという二項対立でおもしろくなっていると。『灰の劇場』はそれと対象的で、恋愛に限らずいろんな人生を後付けでいかようにも説明できてしまうことへのアンチテーゼであるかもしれません。

島倉

なるほど、よくわからないモヤモヤを恋愛で片付けがちなところはありますよね。

ユキノ

面白い。『野菊の墓』では恋愛という概念がまだなかったからこそ、古風な託し方をせざるを得なかったけど、逆にその概念があることによって搔き消されてしまうものもあるってことか。 2人の考察から見える新しい解釈ですね。

いかがでしたか。

「恋愛と芸術」から「恋愛と短歌」へ広がり、短歌というクラシックな表現からクラシックな恋愛へ繋がったと思えば、最後は恋愛小説の古典と現代恋愛(?)小説が「恋愛」という概念そのものを問い直しました。

皆さんなら、どんな本を選び、どんな恋愛を語りますか?

次回は、小松左京著「地には平和を」を読みます。

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ホノ

編集部員。埼玉県出身の大学生。
専攻:政治学
好きな言葉:「仕事だけはポジティブシンキング」
編集部での役割:ハイスピード校正
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