年を経る美 / 第2号寄稿vol.1

年を経る美 / 第2号寄稿vol.1

この記事は、MAJIME ZINE第2号(2020年10月3日発行)に掲載された寄稿文です。

おばあちゃん子だったあんじーが、おばあちゃんの手から考える美しさの多様性。

年を経る美 

突然だが、私はしわくちゃの祖母の手が大好きだ。 あのふかふかとして柔らかく、少しひんやりとした優しい手。 小さい頃からずっと祖母の世話になっていたからだろうか、どうしようもない愛おしさとともに、その手に美しさを感じてきた。 だから、私はここで「経年の美」、そしてこの先積み重ねていく時間についてあなたと考えたい。 

「ばあちゃんの手が大好き」と私が言えば、祖母はいつもこう言う。 

「あんたの手の方がしわもないし、張りのあるいい手してるじゃないの」

そう言って祖母は自身の手を隠してしまう。 確かにそれはその通りで、私の手に比べると祖母の手はたくさんしわがあるし、節くれだっていてところどころ指先は曲がっている。 だけれども不思議とその手はとても魅力的だ。 

祖母は嫁入りした時から家業だった農業を手伝い、それだけでなく祖父の仕事だった自動車整備業の補助もした。 バタバタと仕事をこなす合間にやんちゃな息子ふたりも育て上げた。 かくいう私の育ての親となってくれたのも祖母である。 そして、六十代半ばに差し掛かる祖母は今もなお毎日精力的に活動している。 そんな祖母の生活を支えてきたのがあの手である。 つまりあの手は祖母の生涯の全てを知っているのだ。 

小さい頃に刺さって抜けなくなったえんぴつの芯の黒っぽい傷あと。 日々の仕事の中であっちこっちを向くようになった指先。 手のひらや甲のいたるところに深く刻まれたしわ。 

祖母の経験してきたものを手は雄弁に物語る。 そこには祖母の歴史が宿っている。 だからこそ私は祖母の手が好きで、美しいと感じるのだろう。 

この感覚を私は「経年の美」と呼びたい。 

この話に関連したテーマについて谷崎潤一郎が『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』の文中で語っている。 私のお気に入りの文章のため、少々長くなるが引用させていただく。 

われわれは一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳(かげ)りのあるものを好む。 それは天然の石であろうと、人口の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うと善く聞こえるが、実を云えば手垢の光りなのである。  支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつるつると撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、言い換えれば手垢に違いない。 

……西洋人は垢を根こそぎ発き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまま美化する、と、まあ負け惜しみを云えば云うところだが、因果なことに、われわれは人間の垢や油煙や風雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを思い出させるような色合いや光沢を愛し、そう云う建物の中に住んでいると、奇妙に心が和らいで来、神経が休まる。 

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

谷崎は銀食器の愛で方が西洋と東洋で異なる、という文脈でこのように語っている。 丹念に磨かれてぴかぴかと光る銀食器をよしとする西洋に対して、東洋ではある程度使いこまれて輝きが鈍ってきた風合いのあるものを愉しむのだという。 東洋では「時代のつや」、つまり物が重ねてきた時間を尊ぶ。 この考え方は私の語るところの「経年の美」である。 

一見すると、新品のような傷や曇りのない物の方がよいと感じるかもしれない。 しかし、ぴかぴか光る新しい物と輝きの鈍い、ともに時代を経た物をじっくり見比べると、私には後者の方がより魅力的に思われる。 谷崎の言うように、それは少し汚れがついたもの、またはそんな風合いや光沢のあるものに対して親しみを感じるからだろう。 そしてその親しみは普段からそのものを愛用し、長い時間をともに過ごしてきたからこそ湧いてくるのである。 

例えば、私たちは履き古してうす汚れた上履きを新しいものと交換するとき、なんとも言えない寂しさを感じなかっただろうか。 あの寂しさの源泉はものに対する親しみである。 ともに時間を重ねてきて、付着した傷や汚れがいつどこでついたのかも知っている、だからこそ愛おしく、こういうのも悪くないかなと感じられる。 この思いがあるから、私たちは古いものに惹かれ、美しさを感じとるのだ。 

これまでお話ししてきたように、私は時間を重ねてきたからこそ滲み出てくる美しさが好きだ。 それは、若さや幼さを愛で、新しいものをよしとして大量に消費し、すぐに廃棄する現代の流れとは逆行する。 それでも私は、時間を経てきたものが秘める個人の経験や「経年の美」を支持する。 そして、この「経年の美」の感覚をより多くの人に広めることが私の現在の野望だ。 

冒頭に登場した祖母は私が手を褒めるたび、若くてハリのある手の方がいいと言って、手を隠してしまう。 それを見ると本当に腹立たしく、やりきれない気持ちになったものだ。 祖母の今まで生きてきた歴史の全てがつまった素敵な手を何が隠させるのか。 年をとるにつれて人は価値が薄れる。傷やしわはないほうが美しい。etc……。 そうやって人に狭苦しい基準を押しつけて抵抗する力を吸い取り、服従させてこようとする価値観が私たちの周りには山のようにある。 

私はそれをぶっ壊したい。 

もちろん、既存の全ての価値観が必ずしも悪いというわけではなく、それに賛成する人を否定はしない。 しかしそれで苦しんだり、後ろめたく思ったりする人に、価値観の自由な選択を提供し、認められるような状況を私はつくりたい。 いつも、どんなときでも自分の在りようを認め、愛して生きていける。 自分が重ねてきた時間や経験に誇りを持って、尊重して生きていける。 どうかそういう世界がつくれるようにと私は強く願っている。 

マジメに語ってきたが包み隠さず言ってしまえば、そうじゃないと面白くないのだ。 若かったり、新しかったりするほんの一瞬だけが尊く、美が宿るなんてつまらない。 ここから先の方がずっと長いのだから、そっちにも価値を見出したい。 そういうわけで、この文章にはこれからの私たちへの期待と応援が込められている。 

最後に、元「モーニング娘。」のメンバーである道重さゆみさんのお話を引用させていただき、私の文章を締めくくる。 これまでの自身の変化について尋ねられて、道重さんは笑顔でこう答えた。 

「一○代はかわいい。二○代は超かわいい。三○代は超超かわいい。劣化という言葉は私にはなくて、常にピーク。だから、いままでで今日が一番かわいいんですよ。」 

2019年11月28日に行われた「第十六回万年筆ベストコーディネイト賞二○一九」でのインタビュー)

追記 

今回は「経年の美」メインで語ったが、これはルッキズム(※1)やボディポジティブ(※2)に深く関わる話だ。Youtubeやその他メディアで見かける広告の多くが、モテや痩せ、脱毛、老化……など、企業の利益や旧来のジェンダー観によって、価値観の押し売りが行われている。もちろん、個人が本当にやりたいなら自由にすればいい。全てありのままで受け入れることを推奨しているわけではなく、その方法をとることでより理想に近づけるならぜひともやればいいと私は考えている。しかし別に興味のない人を無理に巻き込んで、やらなければいけない、そうじゃないとおかしいという雰囲気を醸し出すのはタチが悪い。この状況を少しでも変えたい、いま苦しんでいる人が楽になれたら。そう思ってこの文章を書いた。 

私にはひとつ心配していることがある。現状苦しみを抱える人にとって、ボディポジティブの考え方があまりにも眩しすぎるかもしれないという懸念である。私自身、本当に最近になってようやく今の私を認めて、人の目を気にせずに自然体で居られるようになりつつある。その今でさえ、価値観の押し売りの広告を見たり、友人が「太りすぎたから痩せなきゃやばい」とか言うのを聞いたりすると、胸が塞がるような気分になる時がある。 

数年前から、私はボディポジティブについて考えることが多く、その考え方に惹かれていた。にもかかわらずどうしても自分を認めきれない自分にずっと葛藤してきた。時には自分になんの愛しさも価値も感じられず、他の人が羨ましくて仕方なく思ったこともあった。だから、もしかしたらこの話を読んでこれまでの私と同様に、こんなふうに考えられたらいいけど、難しいし、やっぱり自分はダメだ、と思う人が出るかもしれない。それが一番気がかりだ。誰がなんと言おうとあなたはあなたでいるだけで一つの疑いもなく最高で、他人と比べている時間がもったいない。そう私は信じている。 

しかし、膨大な呪縛vs他人の言葉では勝ち目がないため、具体的に効果の見込めそうな方法を紹介して後書きとさせていただく。 

ボディポジティブに近づけそうなことリスト

・自分の気持ちに素直になる練習をする。(本当にやりたいこと?やる必要ある?やってて楽しい?) 

・自分を否定し、傷つけ、不快にさせてくるもの・人から少しずつ距離を取る。(距離が離れて時間が経ってからようやく、自分の気持ちが見えてくることもたくさんある。逆に、自分が楽しい気持ちになれるものにたくさん触れるのも有効) 

・新しいことに小さいことから挑戦し、自信をつけつつ、未経験のことへの恐れを軽減する。(行ったことない場所、食べたことないメニューに挑戦するとか、本当になんでもいい。続けると驚くほど力になる) 

・すぐに自分の考え方が変わらなくても、気にしない。 

・十分な食事・睡眠・運動を意識し、日光に当たる。 

注釈 

※①人を外見だけで一方的に評価、判断する(傲慢で愚かな)言動、思想。 

※②自身の身体を既存の価値観にとらわれず、それぞれの基準で愛そうという考え方。(プラスサイズの運動というイメージが強いが、私自身はより広い意味で、様々な身体的特徴を持つ人が自身を受け入れ、愛することを奨励するものだと捉えている。) 

第2号『マジメが手探り、マジメの手触り』(2020/10/3発行)に掲載。

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あんじー

大学生。京都府在住。ホットなのは韓国風巻き寿司と『数学する身体』という本。たこ焼きパーティーをする際は、「たこぱ☆」ではなく「たこ焼きを用いた親睦会」と呼ぶことが義務。

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