私のライバル /第2号寄稿vol.7

私のライバル /第2号寄稿vol.7

この記事は紙媒体のZINE第2号に掲載したものです。今回のテーマは「ライバル」。Hiromu Takeishi さんによる寄稿文です。

私には一人、大切なライバル(以後K)がいる。Kとは同じ高校で三年間、ともに高校野球に青春を捧げた。 

Kと初めて出会ったのは小学校六年生の時である。当時私たちは別々のチームに所属しており、大会で対戦したのがKとの出会いだった。Kが所属していたチームは県内有数の強豪校だった。Kはその中でもエースピッチャーだった。一方、私が所属していたチームは三回戦まで進むのがやっとの平凡なチームだった。試合は案の定、私のチームが一点も奪えずに大敗を喫した。その試合で私も彼から一本のヒットも打つことができなかった。バットに当たった記憶すらない。私はKとのレベルの違いに絶望したが、その試合の後、素振りをするときには必ず、彼がピッチャーとして私と対戦した時に、私が打てなかった球筋をイメージして行った。これがKとの出会いだった。 

その後お互い中学校へと進学したが、Kはクラブチームに所属し、私は中学校の野球部に所属したため、中学時代に対戦はなかった。 

さらに成長し、Kと私は偶然にも同じ高校へと進学した。Kとは高校生になって初めて会話をした。高校野球時代は、私がキャッチャーとしてKとバッテリーを組んだこともあった。三年生最後の甲子園出場をかけた大会では、私はピッチャーとして、Kともう一人のピッチャーとともに県内ベスト8まで進出することができた。高校三年間で私はKから多大なる影響を受けた。野球の面では変化球の握りを教わったり、野球に対する意識の高さに刺激を受けたりした。生活の面でも、Kは一人暮らしをしていたが、猛烈な忙しさの中でも勉強にも野球にも手を抜かない精神力には劣等感を感じるほどだった。 

Kはもともと将来、野球の審判になることを目標としていた。しかし、高校を卒業した後の野球部の同窓会入会式で、Kはプロ野球選手になることをOBを含めたみんなの前で宣言した。私は小学生の時に野球を始めて以来、ずっとプロ野球選手を目指していたが、小中学校のチームメイトの中で一緒にプロ野球選手を目指す人はいなかったので、この出来事はとても嬉しかった。Kとプロの舞台で対戦することを必ず叶えたいと強く思うようになった。 

それから私は夢であるメジャーリーグに近づくため、アメリカの大学に進学し、野球を続けている。Kは一浪を経て筑波大学に進学し野球部に所属している。Kは浪人生活の中、勉強とともにピッチャーとしてのトレーニングにも励み、高校時代とは見違えるほどの剛速球を投じるまでに成長していた。一方私は、毎晩のように山のように与えられるすべて英語の課題に苦戦し、何のためにアメリカに来たのか、私の選択は間違いだったのではないかと悩むことが多くなった。さらにKの驚異的な成長に焦りも感じていた。さらに追い打ちをかけるように、試合ではほとんど出場する機会を与えられず、悔しい毎日が続いた。それでも頑張り続けられるのはKの存在があるからである。Kの成長に焦りを感じつつも、負けたくない気持ちが今の私の原動力になっている。誰かに負けたくないから日々頑張るというのは、私にとっては今までにない感覚だった。 

私は今でも素振りをするときは、必ずKをピッチャーとしてイメージしながら行っているし、ピッチャーとして練習するときもKよりも速い球、優れたコントロールを意識しながら行っている。 

ほかの人と違うことをするのが大好きな私にとって、一人でプロ野球選手を目指すことは楽しいことではあるが、離れた地にいながらも、日々ライバルから刺激をもらい、切磋琢磨できることも幸せなことだと感じる。むしろライバルがいることによって独りよがりになることがなくなり、広い視野を持って夢に近づくことができる。実際、不定期ではあるが、現在でもKとは連絡を取っており、お互いが刺激を受けた本や練習方法などを共有していて、私にとって新しい発見がある。 

私の最後の目標は、私がメジャーリーガーの代表として、Kが日本プロ野球NPBの代表としてハードオフエコスタジアム新潟で対戦することだ。この大きな夢の舞台で私がその勝負に勝利できるように、私はこれからもKとともに頑張る。 

第2号『マジメが手探り、マジメの手触り』(2020/10/3発行)に掲載。

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Hiromu Takeishi

新潟の高校を卒業後、カリフォルニア州の大学に進学しメジャーリーガーを目指して毎日野球と勉強に励んでいます。

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