せいかつ/第二号寄稿
この記事は紙媒体のZINE第2号(2020年10月発行)に掲載したものです。「せいかつ」をテーマに、編集部員モエコが徒然に文章を綴りました。
先日、2年前に書いたこの文章の存在をふと思い出した。恥ずかしさに耐えながら読み返す。
鬱屈した文章に嫌気も差したけれど、案外2年前の自分も考えていることは今と同じだったんだと気づいた。一度封印した文章ではあるものの、改めて今、ここに置いてもいいような気がしてきた。
というわけで再投稿します。
コロナ期間の自粛中は、物心ついて以来、最も時間のある数ヶ月間だった。いわゆるニートというものを体現していた。大学生なので課題もあったが、決められた時間にせねばならない事は殆ど皆無だった。そもそも大学での勉強は、受験期のように何かを「強いられている」という感覚はほぼ無い。決められた時間にすべき事が何一つない生活というのは新鮮で、かつ苦痛をもたらすものでもあった。
自分について、自分のごくごく狭い世界の中で考える機会でもあったように思われる。殆ど外出しないものだから、九畳一間のアパートの一室は、ほとんど世界の全ても同然であった。寝ても覚めても、見えるのは昨日と全く同じ光景。九畳のこの世界は、全て私の意思のもとに置かれていた。私はこの世界のほとんど全てをつかさどる存在だったと言っても過言ではないかもしれない。
この生活で、はじめて気づかされた。日常のごく普通の営みを丁寧に、大切に、毎日同じように繰り返すことの大切さに。
自分のためにご飯を作って、食器を洗って、洗濯して、掃除して、という動作の反復は、あまりにも単調だった。何のために生活しているのか、よくわからなくなった。時には、部屋の中がどうしようもなく乱れることもあった。何もしていない、していない訳ではないけれど、全て自己完結的なものばかり。生産性がないという、その実感で苦しくなって、それでも何かやれるほどの気力も起こらなくて、頭の中はネガティブな思考がものすごい速度で駆け巡るのに、身体としての私は一歩も動けない。そんな日もあった。
人は、暇を持て余すと余計なことを考えてしまうようである。いろんなことを考えた。思考、いや、殆ど空想めいたものは、自分の住む世界とは似合わない、壮大なことにも及んだ。結局考えが混沌としてしまって、何一つ成果はなかったが、私なりに行き着いた境地はこうだ。
一貫した思想だとか、人生を通じたモットーなどというものは、自分には何もない。ただ毎日の目の前の生活があるだけだ。何かをしてもしなくても、時間が過ぎていくだけだ。と。抽象的な観念に囚われていたって、頭の中で事象を複雑化していたって、何にも生まれて来なかった。大きなことを考えてみたって、ずっと同じ思考でいることなんてできないのだし、あてもなく考えたものなど、現実を前に揺らぎない存在感を放ったりはしまい。ただ生活があるだけだと、それだけがわかった。
生活に付随する小さな仕事の一つ一つだけが、ずっと繰り返されるということだ。結局、物事を勝手に複雑化して悩むより大切なのは、目の前にある現実の生活を「きちんと」やることだと思う。
考えていたら、少し苦しい。
鬱々とした乱文はこれくらいにしておいて、日常の営みについて示唆的な箴言のいくつかを紹介したい。私の好きな評論家・随筆家に、白洲正子という女性がいる。彼女の生き様や審美眼がそのまま表出するかのような、凛とした文章を書く人だ。彼女の「たしなみについて」という文章の中にある言葉を引く。
遊ぶことは働くことと同じ程難しい事です。いや、遊ぶことの方がはるかに難しいのではないかと思います。
ほんとの所、人は皆有閑であるべきです。ひまがなくてはできない事は沢山あり、暇をつくるのは褒むべきであるとさえ思います。
人は、忙しい時の方がどんなに気楽に暮せるか解りません。ひまをつくる事よりも、ひまをつぶす事の方がはるかに難しい仕事であるからです。
白洲正子『たしなみについて』河出文庫
この言葉を受けて、暇であることは恥ずべきことではない、むしろ生み出した暇をいかに使うかは、人としての真価が問われることだ、ということに気づかされた。これを初めて読んだ時、冷たい水を飲む時のように、言葉が身体に染み渡って、乾いていた気持ちが潤っていく感覚があった。何度読んでも、初読のこの感覚は今も鮮明に再現することができる。この言葉は、暇であることに悩み、どことなく苦しさを覚えながら過ごしていた私の隣にただ黙って寄り添ってくれた言葉であった。同時に、あるべき自分の姿を示して、背中を押してくれた言葉でもあった。
ちなみに感覚的な問題だが、同じ「ひま」のことを言うのであっても、「暇だ」という言葉より、「有閑」の語の方が、自由な時間を肯定的に示してくれるような気がする。これからは、「暇」という言葉が浮かんだら、脳内で「有閑」に自動変換できるようにしよう。くだらないが、言葉は意識を変える、なんていうこともあるかもしれない。
さて、私の地元の集落では田んぼ仕事、畑仕事に勤しむ方が多い。実家で暮らしていた間、毎日見かけるおばあちゃんがいた。腰の曲がったおばあちゃんは、毎朝決まって畑に向かってゆっくりとゆっくりと歩いていた。バケツと鎌を載せた古びた押し車を押して歩くおばあちゃんに挨拶をして側を通り抜けるのが、私の日常の一部だった。私の知る限り、そのおばあちゃんの所有する畑が雑草に覆われたことは一度もない。聞けば、私が生まれるずっと前から、その人は雨の日でも朝の畑仕事を欠かしたことはないと言う。その姿は、とても美しいもののように思える。きっと日課の繰り返しの中で、日本の四季の移ろいや小さな素敵なものを見つけているのではないか。そんなふうに勝手に想像を抱かせるほどに、私の目にはその人が素敵に写っていて、記憶から離れなかった。
数十年何かを続けるなんてことは、なかなかできるものじゃない。淡々と、一つ一つの習慣を欠かすことなく静かに生活をするには、自分の人生に対して達観した態度で向き合える、人間としてのおおらかさを備えている必要があるのだろう。そういう人たちのことを、「生活の匠」と形容したい。その境地に達するには、人生経験と、こだわりと、自己肯定感と、少しの諦念が必要なのだろうと思う。
今はまだ、自分の行為に対して誰かの評価や見返りを求めてしまう。意志薄弱にして、毎日何かを継続することなどできない。まだ自分は人間的に出来ていないのだろうと思う。
それでも、いつかはなりたい。日常の瑣末な仕事の一つ一つを、ひとりで静かに、丁寧にできるような人に。
穏やかな気持ちで、自分の周りの狭い領域にいてくれる人たちを大切にしたい。ささやかな生活でもいい。自分の生活に満足して、些細なことに充足感を覚えられるような余裕を獲得したい。何年、何十年かかるかはわからないが、「有閑」であることを肯定できるようになれたらと思う。
生活をするって、美しい。 ごく平凡な毎日を、貫きたい小さなポリシーを持って繰り返す。
生産的に時間を使えたか、という観点で自分の生活を評価することは、実社会に生きる人間として肝要であることは確かだ。だが、ライフ(生活、人生、命)の豊かさは、本質的には生産性という尺度では測り得ないように思う。そして、小さなことであっても、たとえそれが他者や自分に恩恵を齎すものでなかったとしても、「継続する」ことには価値があるということ。
暇は持て余すものではない。 自分を豊かにする、価値ある時間だ。
今はそう思える。
だがあくまでこれは理想、幻想に過ぎない。実際の生活の程はといえば、まだまだである。
食器は流しに溜まるし、掃除も埃に気付いてから。ただ天井を見つめたまま、気づけば二時間、などということも少なくない。時間を無駄にした、という虚無感に襲われて、明日こそは頑張ろうと思う日の連続だ。
「生活の匠」に近づける日は、まだずっと先のようだ。
何はともあれ、きちんと暮らすことは大切。自律的で丁寧な暮らしという遠大な目標に向けて、まずは一つずつ、できることから始めなくちゃいけない。
なんてことを、今日もまたひとり、九畳の部屋の中でぼんやりと思っている。
第2号『マジメが手探り、マジメの手触り』(2020/10/3発行)に掲載
モエコ
副編集長。福井県出身の大学生。日本近代文学専攻。
好きな言葉:「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」
編集部での役割:ねちねち編集、校正、Instagram、諸々のちいさなこと
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