no title#4 6月、「キュンです」から多様性への一考察

no title#4 6月、「キュンです」から多様性への一考察

明白なタイトルがつけられるほど輪郭がくっきりしていない。だけど自分の中には確かにある「何か」を言葉にしてみる実験的企画「no title」。今回は、編集長ナカノによる定例エッセイです。

ある編集会議で、それは起こった。

いつもZINEのためにあくせく動いてくれている編集部員に、珍しく編集長としてお礼を言ったときだったと思う。私もなんだか気恥ずかしく、目を泳がせ、余計なことを言いながら「ありがとう」を伝えようとした。毎日不器用で落ち着きのない編集長を手とり足とり支える優秀な編集部員たちは、編集長のもじもじも含めてその意を解してくれたのだろう。返礼として、私にこう言った。

「キュンです」

キュートな笑顔がぱあっと咲き、細い人差し指と親指がクロスして小さなハートが飛び上がる。このところマスクの中に秘められていた花々が、PCの画面越しにブーケになって投げられ、それをまた全身で受け止めた私……

違う。問題はそこじゃない。取り調べるべきはその台詞だ。

「キュンです」

私はその言葉を知っていた。正確にどこで学習したかは忘れたがイメージとして残っているのは、iPhoneの縦画面に映された雪のような肌で目に星を浮かべた(本当に浮かんでいた)女の子が、きらきら光る背景の中、ほっぺたを膨らませながら言っていた映像である。しかし、身の回りの人間から「キュンです」が飛び出してきたのはそれが初めての経験で、なぜかその衝撃は記憶に焼き付いている。

私がこのことばに射貫かれた原因の一つとして考えられるのは、「キュンです」を異世界のことばとして捉えていたことである。私の目に星は浮かばないし、指でハートもうまく作れない。だけど、編集部員の彼女たちは躊躇なくそれをやってのけた。彼女たちと私の間に、何が線を引いていたのだろう。

さて、ここまで「キュンです」事件を説明させていただいた。この事件の核、「線引き」に関して、「HISTORY」(MAJIME ZINE第1号収録)を書いた二年前の私ならこう言うだろう。「その線引きは、それぞれが周りから自分に与えられたキャラによって生まれるんだよ」。そしてこうも言うだろう。「私には私の、キャラには収まりきらない何かがある。だから、私はそのままのあなたを肯定するよ」

活力の出る力強い励ましだ。涙が出るね。しかし、今の私には若干の違和感が残る。このままの私を肯定してくれるのは嬉しいけれど、そもそも「私」は肯定・否定の対象になり得るのだろうか。「私」はあの日、「キュンです」に馴染めなかったけれど、もしかすると次の日から「キュンです」を連呼していたかもしれない。

言葉との向き合い方ひとつをとっても、周りからの影響など偶然が重なりあい、目まぐるしく変化が起こる。さらにそれを言うなら、気分も、身体の調子も毎日変わり続けているのだから、自分で気が付かない範疇でも「私」は刻々と変化しているのである。

今この瞬間、「私」は変わるものと変わらないものが絡まり合ってできている。こう考えると、一秒前の「私」と今の「私」が全く同じ人間であるということすら言い難い。

それならば、「周りから自分に与えられるキャラ」とは何か。

「HISTORY」の中では「私」が押し込められるものの象徴として書いたが、「私」の止め処ない流動性を思うと、キャラはむしろ必要なのではないかと思えてくる。なぜなら、私たちはコミュニケーションをしなければならないからだ。

コミュニケーションは、複雑だ。「あなた」に何かを伝えるために、言葉を選ぶ。声の調子を選ぶ。言葉を介さなくても、目配りや仕草でも情報は伝わっていく。そして、「私」から伝わる情報は「あなた」の中である程度蓄積されて、「あなた」の中で「私」が形成されていく。流動的に変化する「私」の断片を切り取って、「あなた」の中で「私」のキャラが出来上がっていくのだ。

キャラはコミュニケーションをする上で、前情報として役に立つ。水のように姿を変え続ける「私」と「あなた」が、互いを理解し合うためには、互いにキャラを与えあうことがコミュニケーションの潤滑油になるのである。ただ、キャラにはパターンがある。清楚キャラ。いじられキャラ。不思議キャラなどなど。たいていの場合、このパターンが互いの理解の頭打ちとなる。しかし、本来互いの理解は青天井である。なぜなら、毎秒違う「私」だから。

ここまで、「キュンです」から「私」の流動性、そしてコミュニケーションまで書いてきたが、ただいま筆者、自分の大風呂敷の広げ方に驚いている。しかし、ここまで来たら大風呂敷ついでに書いてしまおう。

最近、「多様性」という言葉をよく耳にする。そこで主に取り上げられるのは、性や人種が多い。しかし、そもそもたった一人の「私」が毎秒変わり続けていると考えれば、性や人種といった言葉すら窮屈に思われる。

本当にこの世界に棲みつく多様性とは、茫然として立ち尽くしてしまうくらい複雑で雑多で分けられない、大きな大きなものなのだ。

明日の私は、「キュンです」と言うだろうか。

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中野多恵

編集長。大学院生。芸術コミュニケーション専攻。

好きな言葉:「手考足思」(河井寛次郎)

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